南国の遊び部屋

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遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3でみる立花宗茂(九州征伐編)

2010-01-18 | 歴史(戦国・維新・島津など)
島津家と敵であったり、味方であったりで関係の深い立花宗茂の戦国無双3・シナリオです。


立花宗茂は高橋紹運の長男で、立花道雪に請われて婿養子となり、1581年に、宗茂14歳・千代12歳で結婚
6歳時に家督を譲られ立花家の当主となっていた千代に代わって道雪から家督を譲られました。

秀吉が1585年10月に惣無事令(私戦禁止令)を発動し、豊臣政権による1586年の「九州国分け」案が出されるも島津家は拒絶し、島津氏の九州全面平定の方針が決定。
しかし、秀吉の力を恐れる島津義久は、大友宗麟の本拠地豊後に侵攻する前に、筑前侵攻を決定したのでした。
この時、宗茂19歳・千代17歳。
島津軍の勢いで大友家から離反する国人がほとんどである中、(立花道雪は1585年に陣中で病死)岩屋城の高橋紹運、宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主で紹運の長子・立花宗茂のみが島津軍に抵抗しました。

1586年7月12日島津軍は岩屋城の高橋紹運に降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、7月14日、3万以上の島津軍による岩屋城攻撃が開始され、7月27日に岩屋城に籠る763名が玉砕。
多大な日数と犠牲を出した島津軍は立花城攻めを中断し、豊後侵攻へ方針転換さぜるをえなくなります。


「秋月種実」は島津氏と大友氏の争いの中で、大友領を次々に侵食してゆき、最終的には筑前、豊前、筑後北部に36万石にも及ぶ広大な所領を築き上げましたが、秀吉の九州征伐で島津に付いたため、九州征伐後、日向高鍋3万石に減移封されました。

「高橋種冬」は秋月種実の弟で高橋鑑種の養子となり、反大友の立場でした。
「星野吉実」「星野吉兼」兄弟は、反大友として島津氏に付き、高鳥居城に入り、秀吉軍の侵攻に備えましたが、1586年8月25日、立花宗茂に攻められ、討ち取られています。
(高鳥居城の合戦「豊薩軍記」など)



島津軍は岩屋城攻略直後に宝満山城も策略にて陥落させましたが立花城は諦め包囲を解き、豊後侵攻へ方針を転換しました。

この後、立花宗茂は撤退する島津軍を追い高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還しています

立花宗茂は、岩屋城が防衛に向かない為に城を捨てて撤退してくれと、父・高橋紹運に頼みますが、立花城を守るため、紹運は自らを囮として徹底抗戦したのでした・・・

宗茂「岩屋城に果てたあまたの命よ、帰ってきたぞ!!」
・・・ガトーですか?(*)


秀吉は同年9月に毛利氏に出陣を命じ豊前へ向かわせ、また十河・長宗我部氏にも豊後へ出陣させ大友氏と合流、島津氏の豊後侵攻軍と正面衝突となります。
12月12日の戸次川の戦いにおいては、島津家久の軍略が冴え、仙石秀久を軍監とする豊臣方は長宗我部信親、十河存保などの有力武将を失う大敗を喫します。


島津豊久は島津家久(義弘公の弟)の子。

義弘公「そう来なくては、おもしろくないわ!」と申しておりました。



義弘公「お前のおやじもその一人だ」
うーん、義弘公、悪役ですねぇ~~
義弘公は敵味方の塚を作るやさしいお方なのですが・・・
全力でかかって来い!という叱咤激励であると、いい方に考えましょう。
というか・・義弘公の立花夫婦に対するツンデレですね(笑)
それはもう、第2話以降の義弘公の立花家へのデレは凄いですから(笑)


1586年12月12日戸次川の戦いにおける勝利で島津軍は勢いづき大友義統が放棄した府内城を陥落させました。
島津軍は大友宗麟の守る丹生島城を包囲しますが、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた石火矢の砲撃で島津軍に損害を与え撃退。
しかし、一時的には島津氏により、豊後もほぼ平定されました。

1587年正月、秀吉は九州侵攻の軍令を下し、3月には自らも出陣。
20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍する秀吉軍を察知した島津軍は北部九州を放棄し、後退を続け薩摩の守りを固める方針に転換します。


島津歳久は第15代藩主島津貴久候の三男で長男義久・次男義弘・四男家久のいわゆる島津四兄弟の三男です。
義久・義弘の二兄が秀吉に降伏した後も最後まで徹底的に抵抗。
秀吉が川内の泰平寺から大口に陣を移す途中に位置する歳久の祁答院領の西端の山崎にて、家来を使いにやり、巧みに秀吉軍を険相な路に案内し、秀吉の駕籠に矢を六本射かけさせました。
1592年8月25日に豊臣政権打倒を掲げる梅北一揆によって島津家の責任の一切を背負って竜ヶ水で自害しました。

旧薩摩藩内ではその生き様が郷中教育とも相まって、兄義弘公を凌ぐほどの崇拝され、歳久の人気は地元では絶大な物があり、島津忠良菩提寺の加世田日新寺と島津義弘菩提寺の妙円寺、そして歳久菩提寺の心岳寺(現:平松神社)に詣でることが大流行しました 。


九州征伐の次は北条氏の小田原合戦(1590年)です。


義久(54歳)は鹿児島に戻り、剃髪して、名を龍伯と改め、その後、家老・伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏しました。
義弘・歳久・新納忠元・北郷時久らは抗戦を続け、義久は彼らに降伏を命じますが、弟・歳久はこれに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけるという事件を起こしています。



秀吉は宗茂の功を認め、筑後柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てました。

このとき秀吉は宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」「九州の逸物」と高く評価したということです。

1587年、佐々成政移封後の肥後国で、大規模な国人一揆が発生したときは、1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取るという武功を上げたそうです。




*[アナベル=ガトー] の名セリフ
「待ちに待った時が来たのだ!
 多くの英霊が無駄死にで無かったことの証の為に・・・
 再びジオンの理想を掲げる為に! 星の屑成就のために!
 ソロモンよ!私は帰ってきた!! 」
『機動戦士ガンダム0083~STARDUST MEMORY~』




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