南国の遊び部屋

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遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・毛利元就(上月城の戦い )

2010-03-15 | 歴史(戦国・維新・島津など)
戦国無双3・毛利元就の章・第三話は『上月城(こうづきじょう)の戦い』です。

上月城は播磨・美作・備前の三国の国境にある要衝の地(兵庫県西部)で、羽柴秀吉の中国征伐が始まった1576年頃は、毛利方の赤松氏が上月城の主でした。

1577年10月から秀吉軍+尼子氏旧臣の山中鹿之介らと、赤松氏+毛利方の宇喜多直家の軍との間で、上月城をめぐり獲って獲られての上月城争奪戦を繰り返します。

1578年2月に秀吉尼子勢が3~4回目の上月城占領となり、出雲奪還を目指す尼子勝久・山中鹿之介ら尼子勢3千がまたしても上月城を守ることになりました.
そして今度は毛利の輝元、吉川元春、小早川隆景と宇喜多直家の連合軍など5万以上の軍勢が4月に上月城を囲みました。



黒田如水が動き東播州の大半は秀吉に従うようになりましたが、西播磨の佐用・上月両城の城主は帰服せず。
毛利方と織田方との上月城争奪戦が始まりました。

1577年11月27日秀吉軍は毛利方の赤松政範の上月城を囲み、同時に 竹中半兵衛・黒田孝高 を福原城へ差し向けました
12月1日福原城は落城
12月3日,秀吉勢は上月城を落とし,場内にいた兵や女子は全員殺されました
上月城祉本丸に赤松正範らの供養碑が残るそうです。

その後
・山中鹿介が守城。鹿介が主君尼子勝久を迎えるべく上京。
・その留守中に宇喜多直家・家臣真壁彦九郎が上月城を奪回。
・鹿介が勝久とともに急ぎ帰ると彦九郎は逃亡。
・1578年1月、宇喜多直家が大軍で上月城を攻め、2月鹿介ら尼子勢は城を脱出。
 直家は上月十郎景貞に死守を厳命。
・2月秀吉軍2万が上月城を囲み.宇喜多直家の援軍2万5千も押し寄るも,秀吉軍に敗れ上月城は再び落城し上月十郎景貞は討ち死.
 ・尼子氏再興に執念を燃やす鹿介らが上月城に拠るのを、毛利方に攻められ、最後の戦いになります。



千代「敵にはあの半兵衛と官兵衛もいる。だが、貴様は父・道雪の好敵手だった男!万に一つも遅れを取るなど許されぬからな」
元就「・・・やれやれ、さすが道雪殿の娘さんだ(笑)」(妄想)

1557年頃から元就は博多の権益を狙い秋月氏の調略など筑前(北九州)に進攻し、「多々良浜の戦い」など大友氏家臣の道雪との立花山城争奪戦が1569年まで10年以上にわたり繰り返されました。


母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕えていた福島正則は、1578年に播磨三木城の攻撃で初陣を飾ります。


元就が正則に「二千年生まれるのが遅かったね(笑)」とのお言葉
「利用しやすい、裏を返せば信用に足る男」とfollowもしてます。


輝元「大殿ばかりに働かせては心苦しい。私も出るぞ!」
輝元軍は備中高松城に本陣として駐留し、残りの5~6万の兵が播磨・上月城を囲みます。


加藤清正は母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから、1573年近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕えました。
1582年4月14日、中国経略中の秀吉が冠山城を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして奮闘し、竹井将監という豪の者を討ち取ったそうです。


石田三成は1574年頃から秀吉の小姓として仕え、秀吉が中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍したそうです。

千代や三成の口の利きように対して、近頃の若者はと元就は嘆いておりました(笑)


半兵衛「俺には、あんまり時間がなくってね」

竹中半兵衛は1579年4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させますが、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願しながら6月13日に36歳で死去。死因は肺の病気(肺炎か肺結核)とされます。


1578年3月13日に上杉謙信が急死。
謙信の死を契機に、第二次信長包囲網は崩壊。


当時の如水は、小寺政職の重臣としてその端城である姫路城を預かっていました。
秀吉が信長の命によって中国征伐の最高指揮官として1577年10月23日に播磨に入ってくると、如水は率先して自分の姫路城を明け渡しました。


毛利軍が上月城に迫ったとの報を受けた際、羽柴秀吉は三木城の攻撃に当たっていました。ただちに上月城救援に向かえる兵力は羽柴秀吉・佐久間信盛・荒木村重率いる30,000のみで、毛利軍60000に対して積極的に出れません。


秀吉は6月半ばに密かに高倉山を抜け、京都へと走り、織田信長に直々の出陣を要請。
しかし信長は使い捨て同然の尼子再興軍3,000など眼中に無く、まずは三木城の別所長治を討つべしと秀吉に命令しました・・・

別所氏は早くから織田信長に従っており、長治も1575年10月に信長に謁見。
信長が中国の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしましたが、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、妻の実家である丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆しました。
多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となりました。
波多野秀治は1576年1月赤井直正の籠る黒井城を攻める明智光秀に突如として叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退します(黒井城の戦い)。
織田信長軍に土をつけたことで赤井直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在に。
1578年10月、荒木村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻します(有岡城の戦い)。
秀吉は黒田孝高を使者として有岡城に派遣し翻意を促すも、村重は孝高を拘束し土牢に監禁しました。

1578年に赤井直正は病没。
1579年に波多野秀治は光秀に降伏。
1579年に荒木村重は毛利に亡命。
1580年に秀吉の有名な「三木の干し殺し」戦法で別所長治は自害。


6月25日、羽柴軍は撤退準備に入りますが、これを察知した毛利軍が攻撃を開始し羽柴軍は一時は総崩れとなり、大打撃を被りました。(熊見川の戦い)
退却した羽柴軍の陣前に「夏山に立てる羽柴の陣なれば、秋(安芸)風吹けば散り失せにけり」という歌が毛利軍兵士の手によって残されていたそうです。


秀吉は尼子主従の忠義を思い、「上月城を棄て、共に撤退するよう」尼子軍に書状を出しましたが、尼子主従はこれを黙殺し、毛利軍との対決の道を選んだとされます。


残された上月城の尼子勢は毛利の大軍の前に降伏を決め、7月3日、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久らは自刃、山中幸盛(鹿之介)も捕虜となり、後に備後国鞆に送られる途上、備中国成羽で殺害されました。

これによって上月城攻防戦は幕を閉じ、尼子氏再興も夢と消えたのでした。

この戦いが今後始まる“毛利 対 織田”の本格的な対決のはしりとなります。
羽柴秀吉は三木城を奪還後、兵力増強し再度中国攻略へと向かい、毛利氏は近畿で織田氏に抵抗を続ける本願寺顕如が籠る石山本願寺への支援を行います。
この両軍の争いは「本能寺の変」が起きる1582年まで続くこととなります。


それにしても、戦国無双3に、尼子や山中鹿介がモブキャラとしても全く登場しないのは不憫ですな・・・



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