「島津の退き口」であります。
島津勢は、戦いには参加せず、寄せてくる敵を迎撃するのみでした。
小早川勢の裏切りをも吉継は迎撃、義弘家臣・曽木弥次郎は、「刑部少輔殿、戦い比類無き様子に候。」と回想(『曽木文書』)する鬼気迫るものでありましたが、さらに寝返った脇坂、朽木、小川、赤座の四隊の攻撃を受け、大谷勢は壊滅。
大谷吉継はその場で自刃、石田三成は他日を期して伊吹山へ落ち、宇喜多秀家、小西行長の軍勢も、あいついで敗走。
今や戦場には、島津勢のみが孤立していたのでした。
島津義弘公の章・最終話の第五話「関ヶ原突破戦」を選択すると、このムービーが始まります。
島津義弘公とわずかな家臣、そして立花宗茂が東軍に追われています。
前方にも敵が!といった感じでしょう
周りを敵に囲まれ
義弘「降参するか?坊ちゃん」
宗茂「いや、その先へいく」
宗茂「ま、ばくちですよ」
義弘公のセリフをとっちゃいましたね(笑)
義弘公は大笑いし・・・
「この戦、負けられぬな・・・」
気合が入りました!
「チェストぉぉぉ」
島津軍は敵中へ突っ込んでいきました。
宗茂も同様です。
宗茂「いや・・俺はチェストなんて言わないよ・・・」
従う旗本は200余騎。
「東よりの敵、もってのほか猛勢。」
と聞き、ただちに
「その猛勢の中に相掛けよ。」
と命じました。
島津勢は敵味方にかまわず、陣に近づくものを切り捨てました。
『薩藩旧記雑録』によれば義弘公は、「薩摩衆五千召列候はば、今日の合戦には勝つものを。」
と、二度三度言ったそうです。
宗茂は大津城を攻めていたために関ヶ原本戦には参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返しました。
大坂城に退いた後、宗茂は大坂城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言しましたが、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げました。
その帰国途中で島津義弘公と同行することになったのです。
帰国途中9月26日両者は船を安芸日向泊につなぎます。
宗茂は「朝鮮戦役」時の戦友・義弘公の船を訪れ、喜びのあまり涙を流しながら往事を語り、再会を期して別れたということです。(『大重平六覚書』)
先鋒・島津豊久、先鋒右備えが富隈衆を率いる山田有栄で、その後に義弘公の本陣がありましたが、すでに義弘公と先鋒・豊久は分断されていました
『大重平六覚書』によれば、義弘公は、敵味方が入り混じって混乱する敵中を突破してさらに進み、大垣城へ籠ろうとしたらしいです。
義弘公は南からの勝ち戦にのる統制のとれた小早川勢に向かうよりは混乱している戦場の中心へ向かったそうですが・・・
「まずは金吾ぉぉぉ!! お前からじゃぁぁぁl!!」
黒田長政、細川忠興らの軍勢は、敗走する石田勢を追って伊吹山へ向かっていたため、義弘公の進路のかたわらには、福島正則の軍勢のみが残っていました。
義弘公の「敵ならば斬り通れ、それができなければ腹を切る。」
という言葉に奮い立った薩摩勢は、軍列を整え突撃しました。
正則は決死の島津勢には手出しをしませんでした。(『神戸久五郎覚書』)
立花宗茂が柳川に帰国後、加藤清正や鍋島直茂、黒田如水に海津城や城島城を攻められます。
島津義弘公は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送ったのですが、間に合いませんでした・・・
宗茂「ああ。生き残ってみせる。千代と二人で。」
立花宗茂は関ヶ原で改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武将です
島津豊久は義弘公の弟・家久の子です。
15歳で初陣した沖田畷の戦いで一人討ち取る手柄を立て、以後も小田原の役や朝鮮出兵など各地を転戦、1599年に起こった庄内の乱に出陣し武功を挙げています。
関ヶ原の戦いの時は伯父の義弘公のもとへ真っ先に駆けつけました。
一度は死を覚悟した義弘公も、豊久のお家のために生き延びて下さいという必死の訴えに心動かされ、退却を決意したとも伝えられています。
先手の豊久が「敵が膝の上に駆け上げるほど寄せ付けてから放て」と下知し、敵勢が眼前に迫り、鉄砲が一斉に放たれましたが、敵の数が多すぎ乱戦となっていきます。
鳥頭坂で、義弘公の退陣を援護すべく、わずか13人の従者とともに踏みとどまり、玉砕・・・
31歳でした。
岐阜県大垣市上石津町烏頭坂には、島津忠重揮毫による豊久の石碑があります。
宮崎県佐土原町、及び鹿児島県日置市の双方にあった天昌寺にも祀られ、寺は共に廃寺となりましたが墓は現存しているそうです。
文禄・慶長の役での同士でした・・・
敵中突破を敢行した島津義弘公は、船団で豊後の国東半島沖を通過する時、大友義統方の安岐城を包囲していた黒田如水の番船に見つかってしまいます。
この船合戦で伊集院久朝ら38人が討死し、侍女7.8人が生け捕られてしまいました。
日向細島に上陸するも、宿敵・伊東氏の配下が黒田如水と結んで、義弘公一行の前途を遮ろうとしたため、迂回して霧島越えし、ようやく兄義久の富隈城(霧島市隼人)に入ったそうです。
関ヶ原敗戦から18日目のことでした・・・
「桜島大噴火じゃあ!!」
いやぁ~、殿は暴れるの好きですから(笑)
宗茂さん、あまり気にされないでいいですよ(笑)
「坊ちゃん、いくぞ!!」
「おりゃぁぁぁぁ!!」
「鬼」と「風」の文字が流れ・・・暴れます
背中を預けあう二人
柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行。
関ヶ原での戦で兵の殆どを失っていた島津義弘公に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を宗茂殿は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて島津義弘と友誼を結んだとのことです。
家康の本陣左翼を目前に、南東へ駆け抜ける薩摩勢を見て、松平忠吉と、徳川最精鋭の四天王・井伊直政、本多忠勝の両軍が追撃してきます
義弘公の眼前に井伊直政が立ちふさがりますが、島津軍・川上忠兄の被官・柏木源藤が進み出、鉄砲で直政の胸板上巻を銃撃し、落馬させます。
大将が撃たれて井伊勢は慌てふためいたのを見ていた義弘公は、
「時分は今ぞ。はや斬り崩し通れ。」
と下知を加え、島津勢は再び反転し、大軍の中を切り崩して駆け抜けました。(『帖佐彦左衛門覚書』)
その後も本多忠勝らの徳川勢はまだ追撃の手をゆるめません
大隈蒲生地頭の長寿院盛淳は蒲生衆70余を率い参戦しましたが、側に残っていた10余の配下と共に「島津兵庫頭、死に狂いなり。」
と、殺到する敵兵に大音声で名乗りをあげ義弘の身代わりとなって戦死しました。(『井上主膳覚書』)
義弘公の無双奥義・皆伝発動
鬼島津の「鬼」です。
大槌をぶん回してます!!
「これぞ鬼島津が戦よ!」
渋い!!
関ヶ原を逃れた義弘公は、大垣城に籠城城するつもりでいました。
付き従うのはもはや、50人ほど。
しかし、大垣城から火の手が上がっているのを見て、城に籠るのは諦め、伊勢路に向かいました。(『大重平六覚書』)
戦国無双3・島津義弘公エンディングです。
宗茂「ふざけるな・・・」ごもっともです。
義弘公「ならば、討ってでも止めるか?」
宗茂は、島津と立花の軍旗を切り落としました。
家など関係ないの意味でしょうか。
宗茂「俺は負けられない」
『名将言行録』では、宗茂のことを「攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と高く評価されているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていました。
義弘公「鬼を越えてみせよ・・・」
義弘公「立花宗茂」
もう坊ちゃんとは言いませんでした・・・
義弘公のシナリオ終盤は宗茂との友情ものでした
宗茂と千代は、これから九州での黒田如水や加藤清正との戦いが待っています!!
立花千代の章・第五話:石垣原撤退戦です。
島津義弘公 関連記事
戦国無双3・毛利元就 (立花救援戦 )
戦国無双3・島津義弘公 (九州征伐編)
戦国無双3・立花宗茂 (九州征伐編)
戦国無双3・立花宗茂 (小田原討伐 )
戦国無双3・立花千代の章第2・3話
戦国無双3・島津義弘公 (伏見城の戦い)
戦国無双3・立花千代 (杭瀬川の戦い)
戦国無双3・立花宗茂 (大津城の戦い )
戦国無双3・立花千代(石垣原撤退戦) +宗茂ED
歴史(戦国・維新・島津など) 目次
島津勢は、戦いには参加せず、寄せてくる敵を迎撃するのみでした。
小早川勢の裏切りをも吉継は迎撃、義弘家臣・曽木弥次郎は、「刑部少輔殿、戦い比類無き様子に候。」と回想(『曽木文書』)する鬼気迫るものでありましたが、さらに寝返った脇坂、朽木、小川、赤座の四隊の攻撃を受け、大谷勢は壊滅。
大谷吉継はその場で自刃、石田三成は他日を期して伊吹山へ落ち、宇喜多秀家、小西行長の軍勢も、あいついで敗走。
今や戦場には、島津勢のみが孤立していたのでした。
島津義弘公の章・最終話の第五話「関ヶ原突破戦」を選択すると、このムービーが始まります。
島津義弘公とわずかな家臣、そして立花宗茂が東軍に追われています。
前方にも敵が!といった感じでしょう
周りを敵に囲まれ
義弘「降参するか?坊ちゃん」
宗茂「いや、その先へいく」
宗茂「ま、ばくちですよ」
義弘公のセリフをとっちゃいましたね(笑)
義弘公は大笑いし・・・
「この戦、負けられぬな・・・」
気合が入りました!
「チェストぉぉぉ」
島津軍は敵中へ突っ込んでいきました。
宗茂も同様です。
宗茂「いや・・俺はチェストなんて言わないよ・・・」
従う旗本は200余騎。
「東よりの敵、もってのほか猛勢。」
と聞き、ただちに
「その猛勢の中に相掛けよ。」
と命じました。
島津勢は敵味方にかまわず、陣に近づくものを切り捨てました。
『薩藩旧記雑録』によれば義弘公は、「薩摩衆五千召列候はば、今日の合戦には勝つものを。」
と、二度三度言ったそうです。
宗茂は大津城を攻めていたために関ヶ原本戦には参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返しました。
大坂城に退いた後、宗茂は大坂城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言しましたが、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げました。
その帰国途中で島津義弘公と同行することになったのです。
帰国途中9月26日両者は船を安芸日向泊につなぎます。
宗茂は「朝鮮戦役」時の戦友・義弘公の船を訪れ、喜びのあまり涙を流しながら往事を語り、再会を期して別れたということです。(『大重平六覚書』)
先鋒・島津豊久、先鋒右備えが富隈衆を率いる山田有栄で、その後に義弘公の本陣がありましたが、すでに義弘公と先鋒・豊久は分断されていました
『大重平六覚書』によれば、義弘公は、敵味方が入り混じって混乱する敵中を突破してさらに進み、大垣城へ籠ろうとしたらしいです。
義弘公は南からの勝ち戦にのる統制のとれた小早川勢に向かうよりは混乱している戦場の中心へ向かったそうですが・・・
「まずは金吾ぉぉぉ!! お前からじゃぁぁぁl!!」
黒田長政、細川忠興らの軍勢は、敗走する石田勢を追って伊吹山へ向かっていたため、義弘公の進路のかたわらには、福島正則の軍勢のみが残っていました。
義弘公の「敵ならば斬り通れ、それができなければ腹を切る。」
という言葉に奮い立った薩摩勢は、軍列を整え突撃しました。
正則は決死の島津勢には手出しをしませんでした。(『神戸久五郎覚書』)
立花宗茂が柳川に帰国後、加藤清正や鍋島直茂、黒田如水に海津城や城島城を攻められます。
島津義弘公は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送ったのですが、間に合いませんでした・・・
宗茂「ああ。生き残ってみせる。千代と二人で。」
立花宗茂は関ヶ原で改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武将です
島津豊久は義弘公の弟・家久の子です。
15歳で初陣した沖田畷の戦いで一人討ち取る手柄を立て、以後も小田原の役や朝鮮出兵など各地を転戦、1599年に起こった庄内の乱に出陣し武功を挙げています。
関ヶ原の戦いの時は伯父の義弘公のもとへ真っ先に駆けつけました。
一度は死を覚悟した義弘公も、豊久のお家のために生き延びて下さいという必死の訴えに心動かされ、退却を決意したとも伝えられています。
先手の豊久が「敵が膝の上に駆け上げるほど寄せ付けてから放て」と下知し、敵勢が眼前に迫り、鉄砲が一斉に放たれましたが、敵の数が多すぎ乱戦となっていきます。
鳥頭坂で、義弘公の退陣を援護すべく、わずか13人の従者とともに踏みとどまり、玉砕・・・
31歳でした。
岐阜県大垣市上石津町烏頭坂には、島津忠重揮毫による豊久の石碑があります。
宮崎県佐土原町、及び鹿児島県日置市の双方にあった天昌寺にも祀られ、寺は共に廃寺となりましたが墓は現存しているそうです。
文禄・慶長の役での同士でした・・・
敵中突破を敢行した島津義弘公は、船団で豊後の国東半島沖を通過する時、大友義統方の安岐城を包囲していた黒田如水の番船に見つかってしまいます。
この船合戦で伊集院久朝ら38人が討死し、侍女7.8人が生け捕られてしまいました。
日向細島に上陸するも、宿敵・伊東氏の配下が黒田如水と結んで、義弘公一行の前途を遮ろうとしたため、迂回して霧島越えし、ようやく兄義久の富隈城(霧島市隼人)に入ったそうです。
関ヶ原敗戦から18日目のことでした・・・
「桜島大噴火じゃあ!!」
いやぁ~、殿は暴れるの好きですから(笑)
宗茂さん、あまり気にされないでいいですよ(笑)
「坊ちゃん、いくぞ!!」
「おりゃぁぁぁぁ!!」
「鬼」と「風」の文字が流れ・・・暴れます
背中を預けあう二人
柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行。
関ヶ原での戦で兵の殆どを失っていた島津義弘公に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を宗茂殿は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて島津義弘と友誼を結んだとのことです。
家康の本陣左翼を目前に、南東へ駆け抜ける薩摩勢を見て、松平忠吉と、徳川最精鋭の四天王・井伊直政、本多忠勝の両軍が追撃してきます
義弘公の眼前に井伊直政が立ちふさがりますが、島津軍・川上忠兄の被官・柏木源藤が進み出、鉄砲で直政の胸板上巻を銃撃し、落馬させます。
大将が撃たれて井伊勢は慌てふためいたのを見ていた義弘公は、
「時分は今ぞ。はや斬り崩し通れ。」
と下知を加え、島津勢は再び反転し、大軍の中を切り崩して駆け抜けました。(『帖佐彦左衛門覚書』)
その後も本多忠勝らの徳川勢はまだ追撃の手をゆるめません
大隈蒲生地頭の長寿院盛淳は蒲生衆70余を率い参戦しましたが、側に残っていた10余の配下と共に「島津兵庫頭、死に狂いなり。」
と、殺到する敵兵に大音声で名乗りをあげ義弘の身代わりとなって戦死しました。(『井上主膳覚書』)
義弘公の無双奥義・皆伝発動
鬼島津の「鬼」です。
大槌をぶん回してます!!
「これぞ鬼島津が戦よ!」
渋い!!
関ヶ原を逃れた義弘公は、大垣城に籠城城するつもりでいました。
付き従うのはもはや、50人ほど。
しかし、大垣城から火の手が上がっているのを見て、城に籠るのは諦め、伊勢路に向かいました。(『大重平六覚書』)
戦国無双3・島津義弘公エンディングです。
宗茂「ふざけるな・・・」ごもっともです。
義弘公「ならば、討ってでも止めるか?」
宗茂は、島津と立花の軍旗を切り落としました。
家など関係ないの意味でしょうか。
宗茂「俺は負けられない」
『名将言行録』では、宗茂のことを「攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と高く評価されているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていました。
義弘公「鬼を越えてみせよ・・・」
義弘公「立花宗茂」
もう坊ちゃんとは言いませんでした・・・
義弘公のシナリオ終盤は宗茂との友情ものでした
宗茂と千代は、これから九州での黒田如水や加藤清正との戦いが待っています!!
立花千代の章・第五話:石垣原撤退戦です。
島津義弘公 関連記事
戦国無双3・毛利元就 (立花救援戦 )
戦国無双3・島津義弘公 (九州征伐編)
戦国無双3・立花宗茂 (九州征伐編)
戦国無双3・立花宗茂 (小田原討伐 )
戦国無双3・立花千代の章第2・3話
戦国無双3・島津義弘公 (伏見城の戦い)
戦国無双3・立花千代 (杭瀬川の戦い)
戦国無双3・立花宗茂 (大津城の戦い )
戦国無双3・立花千代(石垣原撤退戦) +宗茂ED
歴史(戦国・維新・島津など) 目次
おたく記事がけっこうありまして、恥ずかしかったりするのですが(汗)。
家族の写真の件は大丈夫でございます。
拙いブログでございますが、よろしければ、ご紹介していただければ、幸いでございます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
感嘆してしまいました
ゲームは買った事もありませんしやった事もありませんが、プレイステーション3、戦国無双3Zを購入して、島津義弘となって、本多忠勝あたりを小示現流でバッサリ切り倒してみたいと思いす
歴史好きであれば、戦国無双や三国無双シリーズもいいですが、「信長の野望」などシュミレーションゲームも楽しいですよ。
もう徹夜で廃人になるくらいです(笑)
私はまだプレイステーション3は持ってなくて、2011年2月10日発売予定のWii版の猛将伝を心待ちにしています!