南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・小谷城の戦い(長政・市)

2010-08-12 | 歴史(戦国・維新・島津など)
戦国無双3・長政の章(五話)、市の章(四話)は1573年の 「小谷城の戦い」です。


「姉川の戦い」(長政の章・四話、市の章・三話)をクリアすると見れるムービーがあります。

長政「市・・・織田に戻ってほしい」
市「長政様!」


市「長政様・・・私は・・・!」
長政「待っていてくれ」


長政「この地から争いを、憎しみをなくし」
「皆がともに手をとって暮らせる国を」
「それがしが築いてみせる」


市「そんな・・・」
「そんな国が、あるわけない・・・!」

あちゃー・・・市もついに言っちゃいましたね~

市「だから・・・! 一緒にいたいのに・・・!」


織田に戻る道中、市は、長政と初めて出会った藤の花が咲いていた場所を通りかかりました。
長政が、この地も、いつか花で満開になればいいとつぶやいた場所です。


長政と初めて出会ってから月日が過ぎ、いつの間にか藤の花が咲き乱れるまでになっていました・・・
市「長政様・・・!」
「ここにある・・・」


市「長政様の築く国は、ここにある・・・!」

市の脳内完結・お花畑なのか、長政の理想の国作りは夢ではないという意味なのか…


市の章では、「小谷城の戦い」で市が長政を助けに行くという設定です。


長政の章(最終話)では、市は織田に戻り、登場しません・・・


戦国無双3の織田・徳川方の章では「姉川の戦い」で朝倉義景退場となります。


1570年6月、姉川の戦いで織田・徳川連合軍に朝倉・浅井連合軍は敗北。
同年9月、信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津に出兵(野田城・福島城の戦い)している隙をついて、朝倉・浅井軍は織田領の近江坂本に侵攻し、信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込みました。
しかし信長が軍を近江に引き返してきたため、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙(志賀の陣)。
信長の朝廷工作で12月に信長と勅命講和。
1571年6月、義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約が成立。
同年8月、朝倉義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、逆に信長に兵站を脅かされて敗退。
浅井氏と協力関係にあった比叡山延暦寺は、1571年9月に信長に比叡山焼き討ちにあい壊滅してしまいます。

1572年7月、信長が小谷城を包囲するも、義景が援軍に来たため、両軍は睨み合いに終始。
信長方の調略によって、朝倉家では前波吉継や富田長繁ら有力家臣の多くが信長方に寝返りしていきます。


1572年10月、甲斐の武田信玄が上洛を目指して織田・徳川領に侵攻します。
信長は義景と対峙していたため、本隊を武田軍に向けることができず、織田・徳川軍は次々と武田軍に諸城を奪われました。
義景は12月に部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、織田信長包囲網を勝手に解いて離脱した義景を信玄が非難した文書を送りつけられました(伊能文書)。
「此節信長滅亡時刻到來候処、唯今寛宥之御備労而無功候歟、不可過御分別候」
(織田信長を滅亡に追い込める好機が到来した時に、そのような寛容な備えでいても、労あるのみで功などは無い。)


1573年4月、朝倉家の同盟者・武田信玄が陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げ、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になりました!

同年7月に信長は足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼしました。
1573年8月8日、信長は3万の大軍を率いて近江に侵攻。
浅井長政は5000人の軍勢をもって小谷城に籠城します。
これに対して義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするも、数々の失態を犯し家臣の信頼を失いつつあり、朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否され、2万の軍勢を率いて出陣しました。
一乗谷城の戦い(刀根坂の戦い)
暴風雨の中、信長の電撃的な奇襲により、朝倉軍は大敗し、越前へ撤兵する朝倉軍を信長自らが率いる織田軍の追撃で壊滅的な被害("撫で斬り(皆殺し)"にされた)を受け、斎藤龍興(客分として仕えていた)、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死しました。
義景は一乗谷に帰還するも、将兵の大半は逃走しており、一乗谷を放棄し従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていましたが、8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を襲撃し、義景は遂に壮烈な自害を遂げました。

信長の領土は越前・若狭に拡大することとなりました。

お市の章の「小谷城の戦い」

市「長政様は争いが終わるまで織田に戻り待てと言った」
「でも、それはできない。」

市「私は、愛されるより愛したいから」
「長政様を支え、共に生きていきたいから」

滝川一益「何をなされる。我らは織田の臣、味方ですぞ」
丹羽長秀「お市様、どうなされたのです…!」
市「私は浅井長政の妻。浅井の敵は私の敵です」
「ごめんなさい。私は織田には戻れません」
「早く、早く長政様に会いたい」


長政「市! なぜここに…」


市「長政様、あなたが争いのない国を築くというのなら、それを待つのではなく、一緒に築きたい」

「支えられるだけでなく、支え合いたい」
「だからどうか、側に、いさせてください」

長政「…ありがとう、市。共に生きよう、ずっと!」
市「長政様…!」


信長「クク、愛を貫き、信長に抗うか…」
「ならば、はなむけに地獄をくれてやろうぞ」


秀吉「お市様が織田に戻られ小躍りしとったっちゅうに」
「なんでまた戦わねばならんのじゃ」

市「愛する長政様のため、二度と織田には戻りません」

秀吉「かーっ! そこまで言うなら、覚悟きめますわ」
「せめて、お市様そっくりな御子を産んでくだされ」

秀吉は市に熱烈な好意を抱いていたとされ、小谷落城の際も賤ヶ岳落城の際にも母子の生命を何とか救おうとしていました。
また後年茶々(淀殿)を側室に迎えたのも、三姉妹の中で彼女が一番市に似ていたから、と言われています。


濃姫「うぶな顔して、大胆なことするのね、市」
「突き進みなさい、愛の命ずるがままに」


市「ここは長政様と私の城、お兄様には渡しません!」


信長「その目ぞ、市。クク…美しゅうなった」

戦国一の美女と賞された市ですが、姉妹の犬や、信長、秀孝と織田家は美男美女の家系だったとのことです。


一方、長政の章では…

浅井久政「もう敵がそこまで押し寄せてきたか…!」

織田軍は一乗谷陥落後8月27日、完全に孤立した小谷城へ攻撃を仕掛けました。

長政「父上、京極丸は捨ててお逃げください!」
京極丸を羽柴隊に落とされ、久政の籠る小丸は長政の本丸と分断されました。
小丸に篭っていた浅井久政(長政の父)は攻め立てられ久政は小丸にて自害しました。


柴田勝家「すべてはわぬしが招いたこと、お市様がお労しい」
「あまりに青い…乱世の厳しさ、その身に刻むがよい」

…勝家にも後に乱世の厳しさが降りかかることになりますが…
市はもしかして○げ○んですか?


磯野員昌「長政様、無茶をなさってはいけませんぞ」

姉川の戦いでは「員昌の姉川十一段崩し」と語り継がれるほどの活躍をした員昌(かずまさ)でしたが、姉川の合戦後、員昌が守る佐和山城は直ちに織田方に包囲されました。
陸路では横山城を拠点とした織田軍により分断され、羽柴秀吉の員昌に翻意ありという流言を信じ切ってしまった浅井氏側が湖を通した形でも佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめたことから員昌は1571年2月24日、佐和山城を攻撃された際にやむなく信長に降伏し、浅井氏は徐々に苦境下に陥っていきます。


竹中半兵衛「阿閉(あつじ)さんに宮部さん、そろそろいいんじゃない?」
寝返りを促す半兵衛です。

宮部継潤(みやべ けいじゅん)は長政に従って織田信長との戦いで活躍しましたが、1572年10月に羽柴秀吉の調略に応じてその与力となりました。
1577年からは秀吉の中国遠征に従い但馬豊岡城主や因幡鳥取城の城代として守りを固め、九州征伐や小田原の役にも参陣。晩年は秀吉の御伽衆になりました。

1573年8月に浅井家重臣の阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長は3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始、虎御前山の砦に本陣を布きました。
阿閉貞征は本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を攻め、山崎の合戦で光秀が打ち破られると秀吉に追討されました。


秀吉「長政殿、頼む!今ならまだ間に合うんじゃ!」
「信長様とて、お市様の口添えがあれば…」
長政「秀吉殿、それがしは信じる道を貫きたい」

信長は長政を高く評価していたらしく、何度も降伏勧告を行い降伏した後は大和へ新領地を与えるという、破格の案も出され、不破光治、木下秀吉なども使者として送られましたが長政は断り続け、最終勧告も決裂しました。


濃姫「愛する市を手放して、決死の覚悟ってとこかしら?」

8月28日、織田軍が総攻撃を始めると、長政は嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃がしました。
そして秀吉側から妻子の助命を条件に降伏を勧められましたが、長政はこれを拒否したものの、正室お市の方と三人の娘(浅井三姉妹)は織田軍に引渡しました。
長政と仲睦まじかった市は運命を共にする決意でしたが、長政から諌められ帰還を決意しました。


信長「まだぬるいわ…もっと愉しませよ!」

残りの手勢を率いて防戦するも、織田軍の猛攻に屈して城兵は玉砕、9月1日、袖曲輪の赤尾屋敷内で赤尾清綱、弟浅井政元らと共に長政は自害します。

ここに北近江の戦国大名浅井氏は亮政から3代で滅びました。


長政のエンディングです

長政と信長が人払いをして一対一で戦っています。


一進一退の攻防が続きますが・・・


長政が信長の剣を弾き飛ばし王手をかけます。
しかし小谷城に火の手が上がり、兵士達も織田軍に攻め込まれ、落城寸前です。


信長「さあ、信長を討て」
長政「いいえ」
「義兄上、市を頼みます」

信長「信長はうぬとの誓いを破った男ぞ」

朝倉を攻める時は事前に一報入れるという約束のことでしょうか


長政「義兄上を信じています」


長政は燃えさかる城の方へ、ゆっくりと向かっていきました…



市は3人の娘(茶々、初、江)と共に藤掛永勝らによって救出され織田家に引き取られますが、長男の万福丸は捕われて殺害され、次男の万寿丸は出家させられました。
その後、市は織田信長の許しを得て、清洲城にて兄の織田信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを平穏に過ごしました。
この時の信長の市親子に対する待遇は大変厚く、市や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたそうです。
信包も、「浅井家の血が絶えるのは忍びない」と言い、市や三姉妹を手元で保護し、姪達を養育しました。

市は信長没後の1582年に柴田勝家と再婚しました。
1583年、夫の勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に越前北ノ庄城内で自害しました。



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