南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・真田幸村(忍城の戦い)

2012-11-06 | 歴史(戦国・維新・島津など)
検索キーワードで「忍城の戦い」が2012年11月2日に36PV、3日に16PVと普段より多かったのですが、映画館に行ってわかりました(笑)

2012年11月2日より『のぼうの城』という「忍城の戦い」をテーマにした映画が公開となってました。


主人公は甲斐姫ではなく(笑)、成田長親(なりた ながちか)。
当主・氏長の従兄弟でその姿から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれているそうです。


映画「のぼうの城」オフィシャルサイト

…予告編見る限り、かなりおもしろそうです!



和田竜の小説家デビュー作であり、第29回城戸賞(2003年)を受賞した脚本『忍ぶの城』を、映画作品を前提としたノベライズとして自ら執筆。

第139回直木賞(2008年上半期)ノミネート、2009年の第6回本屋大賞第2位。

2010年10月時点で累計発行部数70万部を突破!








戦国無双3・真田幸村の章・第三話は「忍城の戦い」です。


秀吉の調停もあり、徳川家康の養女となっていた本田忠勝の娘・小松姫(幼名・稲姫)は1586年(1589年とも)に真田信之に嫁ぎ、真田と徳川で和議が成立します。

真田昌幸は1585年関白となった秀吉に幸村を人質として送り(上杉景勝が京に上った留守に春日山城から脱出させた形で景勝を激怒させたとも)臣従を誓いました。

1589年、秀吉は天下統一に向けて、小田原の北条氏を上洛させるため、北条・真田氏の領土紛争地域の大半を北条領とし「沼田城を北条に与え、知行地の三分の一は真田に残す」と裁定しましたが、北条氏家臣が真田の名胡桃城を占領したことで、惣無事令違反として秀吉が激怒し小田原征伐が決定されました。

惣無事令(そうぶじれい)とは、豊臣秀吉が出した、大名間の私闘を禁じた法令で、九州討伐や小田原征伐の大義名分を与え、奥羽仕置のように伊達政宗、南部信直、最上義光らを帰順させる事に繋がりました。

小田原攻めの遠征軍は二手に別れ、家康は東海道方面の先鋒に、昌幸・信之・幸村は前田利家、上杉景勝らの北陸支隊に加わりました。
北陸支隊は1590年3月18日、碓氷峠を突破し3月28日上野の大道寺政繁が守る松井田城攻略を開始し、猛攻の末4月20日に攻略、厩橋(うまやばし)城(4月19日)、箕輪城(4月23日)と上野の各城を開城勧告などで落としていきます。
一方、小田原包囲勢から北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵や房総の北条一門の諸城を攻略していきました。

そして最後に忍城を囲みます。

忍城攻めでは、石田三成を大将、長束正家を副将に佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝などの上野・下野の諸将や真田昌幸を先鋒に押し立てて攻め寄せました。



幸村・・・呼び捨て?
義姉だけど、年は幸村が上なんですが(笑)・・・

忍城は湿地を活かして築城されていて大軍で一度に攻めることが難しく、水攻めにしようと“石田堤”と呼ばれる長大な堤防を築きます。

稲姫「この戦況でも、敵の士気は衰えていません」
「なんとしても敵の士気をくじかなくては…!」

1590年6月、石田三成率いる2万余の大軍が来攻したのに対し、3000人程度が籠もるだけでしたが、城代・成田泰季に率いられた籠城軍の士気は高かったそうです。


幸村「義姉上、いかに優勢とて突出しては危険です!」
「…聞こえていないな。まっすぐで…困ったお方だ(汗)」

この回は、ほのぼの路線で(笑)


忍城の周囲に全長およそ14キロの堤防を築き水をいれますが、梅雨による豪雨は予想を遥かに上回り堤防は決壊。
濁流が三成軍を押し流し、多数の死者を出したそうです。


越前敦賀の城主・大谷吉継も石田三成と忍城攻略戦に参加していました。
1594年頃、真田幸村は大谷吉継の娘(竹林院)を正室にしています。

籠城戦の途中で成田泰季は病死し、成田氏長の娘・甲斐姫が指揮を引き継いだとされています。
甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて兵を率いて討って出、三成軍を翻弄したそうです。


くのいち「今日は一段と手がつけられない暴れっぷり…」
幸村に言っているのか、ライバル甲斐姫に言ってるのか(笑)


兼続「水攻めが破られたのは、敵の信念が勝ったからだ」
「人が抱える信念は、物量で押し潰せるほど脆くない」

北陸支隊に参加中の上杉軍です。

堤防が決壊したのには堤防作りに動員した地元民が普段から成田氏より恩義を受けていたため、わざと手抜き工事をし、豊臣軍を窮地に陥れた、という説もあるそうですが…

幸村「兼続殿…私も何があろうと己の信念を貫く覚悟です」



甲斐姫の「ゼッタイ、負けない!」が出ました

三成軍の苦戦に真田昌幸・信繁父子、浅野長政勢が援軍に差し向けられ、武勇に優れた真田勢の猛攻に城門の一つが突破されそうになると、甲斐姫自ら兵を率いて討って出、敵将・三宅高繁をはじめとして幾多の首を討ち取り、寄せ手の侵入を阻止したということです


幸村「義姉上が真田家に来てくれてよかった」
稲姫「え…? どうして?」

幸村「父上も兄上も、笑うことが多くなりましたから」

1620年に48歳で小松殿が没した時、夫・信之は「我が家から光が消えた」と嘆いたそうです(泣)


稲姫「私、笑われるようなことをしているかしら…?」

天然ですね(笑)

1600年の関ヶ原の戦い前までは真田家にとって幸せな日々だったことでしょう…


忍城攻略戦の結末は・・・
7月5日の本城・小田原城開城後も知らずに籠城継続し、甲斐姫の父・氏長(小田原城に入っていた)から開城の指示があり、忍城開城となりました。




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