立花千代の章・第四話は「杭瀬川(くぜがわ)の戦い」です。
史実的には立花家とあまり関連はありません・・・
立花宗茂は三成ら西軍本隊とは別働隊で大津城を攻めていました。
久々の元親登場。(無双3では、史実では豊臣軍として登場した九州征伐(1586年の戸次川の戦い)でも登場してませんでしたが・・・)
史実では1599年5月、死去しています・・・・
元親の四男・長宗我部盛親が西軍として戦いました。
織田秀信が城主の岐阜城を落とすなど、東軍優勢となりつつありました。
1600年9月14日、東軍の総大将である徳川家康が美濃赤坂に大軍を率いて到着すると、西軍の中で動揺が走り、脱走者も出現するありさま。
事態を憂慮した石田三成の家老・島清興(島左近)は戦勝による士気の回復を進言し、東軍に奇襲攻撃をかけることにしました。
家康が東軍諸大名などに宛てた書状は約200通にも及びますが、三成が西軍諸大名に宛てた書状は、家康のそれよりも少なく、真田昌幸からは「なぜ挙兵前に(挙兵の意思を)知らせなかったのか」と、返書で疑問にされているそうです。
1万5,000の大軍を擁する(あとで東軍へ寝返る)小早川秀秋には、秀頼が15歳になるまでの間、秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示したそうですが・・・
関ヶ原の戦い中、島津軍に出撃を三成自ら要請しに、島津の陣に訪れるも、島津豊久に「本日は各々が好き勝手に戦えばいい!!」と突っぱねられ、すごすご退散せざるをえないありさまでした・・・
関ヶ原の戦いの際、徳川方に味方することを決めた真田信之の妻である小松姫(幼名・稲姫)(こととき稲姫27歳)は、沼田城の留守を守っていました。
西軍についた義父の真田昌幸が居城である上田城に向かう途中、沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望した時、稲姫は戦装束で舅の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と一旦は断りますが、昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ稲姫は子供を連れて現れ、孫の顔を見たいという昌幸の所望をかなえたそうです。
これにはさすがの昌幸、信繁(幸村)父子も感心しきりであったということ
立花宗茂は家康から莫大な恩賞を約束されるも、豊臣家に恩義があると西軍につきました。
長宗我部盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えていましたが、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍に与しました。
関ヶ原では徳川家康に内応する吉川広家が前に居座って動かなかったため、実際の戦闘には加わることが出来ないまま西軍壊滅となった非常に気の毒な盛親でした。
ここでも千代の父・立花道雪や、義父・高橋紹運の名が!
関ヶ原の戦いの前哨戦・杭瀬川の戦いは西軍の大勝に終わりました。
杭瀬川の対岸へ渡った島左近隊は、東軍の中村一栄隊の前で苅田を始め挑発。
島左近はある程度戦うと、敗れた風を装って退却をはじめ、追撃した中村・有馬隊は釣り出され伏兵にあい、さらに宇喜多家の明石全登が参戦して両隊は大被害を受けて敗走。
このとき、中村家の家老・野一色頼母が戦死するなど、40人ほどが西軍によって討ち取られたそうです。
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元親の四男・長宗我部盛親が西軍として戦いました。
織田秀信が城主の岐阜城を落とすなど、東軍優勢となりつつありました。
1600年9月14日、東軍の総大将である徳川家康が美濃赤坂に大軍を率いて到着すると、西軍の中で動揺が走り、脱走者も出現するありさま。
事態を憂慮した石田三成の家老・島清興(島左近)は戦勝による士気の回復を進言し、東軍に奇襲攻撃をかけることにしました。
家康が東軍諸大名などに宛てた書状は約200通にも及びますが、三成が西軍諸大名に宛てた書状は、家康のそれよりも少なく、真田昌幸からは「なぜ挙兵前に(挙兵の意思を)知らせなかったのか」と、返書で疑問にされているそうです。
1万5,000の大軍を擁する(あとで東軍へ寝返る)小早川秀秋には、秀頼が15歳になるまでの間、秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示したそうですが・・・
関ヶ原の戦い中、島津軍に出撃を三成自ら要請しに、島津の陣に訪れるも、島津豊久に「本日は各々が好き勝手に戦えばいい!!」と突っぱねられ、すごすご退散せざるをえないありさまでした・・・
関ヶ原の戦いの際、徳川方に味方することを決めた真田信之の妻である小松姫(幼名・稲姫)(こととき稲姫27歳)は、沼田城の留守を守っていました。
西軍についた義父の真田昌幸が居城である上田城に向かう途中、沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望した時、稲姫は戦装束で舅の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と一旦は断りますが、昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ稲姫は子供を連れて現れ、孫の顔を見たいという昌幸の所望をかなえたそうです。
これにはさすがの昌幸、信繁(幸村)父子も感心しきりであったということ
立花宗茂は家康から莫大な恩賞を約束されるも、豊臣家に恩義があると西軍につきました。
長宗我部盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えていましたが、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍に与しました。
関ヶ原では徳川家康に内応する吉川広家が前に居座って動かなかったため、実際の戦闘には加わることが出来ないまま西軍壊滅となった非常に気の毒な盛親でした。
ここでも千代の父・立花道雪や、義父・高橋紹運の名が!
関ヶ原の戦いの前哨戦・杭瀬川の戦いは西軍の大勝に終わりました。
杭瀬川の対岸へ渡った島左近隊は、東軍の中村一栄隊の前で苅田を始め挑発。
島左近はある程度戦うと、敗れた風を装って退却をはじめ、追撃した中村・有馬隊は釣り出され伏兵にあい、さらに宇喜多家の明石全登が参戦して両隊は大被害を受けて敗走。
このとき、中村家の家老・野一色頼母が戦死するなど、40人ほどが西軍によって討ち取られたそうです。
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師匠と呼ばせて下さい(笑)
ノコギリだけでなく、コクワガタやヒラタもいるとは!
カブトも身近にいるんですね!
初夏が楽しみです。