南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・武田信玄&北条氏康(三増峠の戦い)

2010-06-10 | 歴史(戦国・維新・島津など)
戦国無双3・武田信玄の章・第3話と北条氏康の章・第4話は、1569年の武田軍VS北条軍「三増峠の戦い」です。
戦国最大規模の山岳戦として知られています。


1568年12月に信玄が甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻したことで、氏康は長年敵対してきた謙信との和睦を希望し1569年3月、謙信は宿敵ともいえる氏康と同盟しました(越相同盟)。

1569年9月10日信玄は武蔵鉢形城(氏邦)を攻め、さらに南下し八王子の滝山城(氏照)を攻めるも落城させないまま、軍を進め、10月本城の小田原城を軍勢2万が包囲しました。

1561年上杉謙信が関東出兵時に10万もの兵で小田原城を1ヶ月包囲するも落とせませんでした。

武田軍は近辺に放火して北条方を挑発しますが、氏康は籠城策をとり、10月4日武田軍は撤退を開始、帰国の途につきます。


翌日5日、相模川右岸を遡って津久井を経て甲斐に向かう武田軍を、氏邦・氏照連合軍が退路三増峠で待ち伏せ、追撃してきた氏康・氏政軍と挟撃する作戦に出ます。


しかし挟撃を察知していた武田軍に、逆に北条軍は痛撃を受け敗退、多大な犠牲を払ってしまいました。


信玄「この戦でわしは、己の器を確かめたいと思う」
「おことらを失わず戦い、氏康の心を攻め取る!」

実はこの時、武田包囲網(織田・徳川・上杉・北条・今川による)があり、武田氏はかなりの危機だったようです。
しかし、越相同盟も初めは条件がなかなか折り合わず、氏康らの謙信への再三の出兵要請も実らずその隙をついた信玄の軍事行動でした。



北条氏邦「我ら兄弟の結束にかけて、ここは通さぬ」

氏邦は氏康の四男で北条氏政、北条氏照の弟です。
兄・氏照同様に武勇・統治に優れ、北関東の最前線、上野方面の軍事を任されました。
本能寺の変後の神流川の戦いでは、当主の氏直を補佐し滝川一益を壊走させています


くのいち「お館様、氏康率いる本隊が近づいている模様」

北条氏康・氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦でした。


甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万が要所である三増峠に着陣、氏政本隊は到着前でしたが、氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていました。
これを察知した信玄は部隊を3隊に分け、北条軍の攻撃を正面に受けつつ他の2部隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦でした。
緒戦では北条軍有利に合戦は経過し、そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により殿軍の浅利信種や浦野重秀が討ち死にしています。

しかし山県昌景が率いる武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転しました。

武田氏第20代当主となる武田勝頼は1569年の北条氏の武蔵滝山城攻め(北条氏照と切り結んだとも言われています)、相模小田原城攻めに起因する三増峠の戦い、1570年の駿河平定戦等においても武功を挙げました。


北条氏照「ダメだ!我らだけでは信玄に当たれぬ」

北条氏照は氏康の3男で氏政の弟。上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達家とも濃密な外交関係を築くなど活躍しました。
1578年、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると弟上杉景虎の援軍要請に応じた兄氏政の名代として、氏邦とともに越後に出陣しました。


信玄「来たかね、氏康。留守の間、子守をしといたよ。」
氏康「ありがとよ。礼はさせてもらうぜ…たっぷりとな。」

史実では合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていましたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しませんでした。


氏照「父上…不肖の息子をお許しください」
氏康「不肖とか言うな。お前は俺似のド阿呆だよ。」

氏邦「兄者さえお逃げになれれば…私など…」
氏康「ド阿呆、出来の悪いせがれの尻拭うのは親の役目 お前がやられてちゃ意味ねえだろが」


氏康「・・・餓鬼どもに命張らせるなんざ、ったくヤな時代だ」
ファーストガンダムでもありましたね、こういう台詞.
「ジオンとの戦いがまだまだ困難を極めるという時に、我々は素人まで導引していく、寒い時代だとは思わんか?」by ワッケイン


甲斐姫「うわっ! 北条軍、ボロボロじゃないですか!」
「でも大丈夫です! この私は健在ですから!」

氏康「・・・・・・・」
(・・・なにが大丈夫なんだ?お前が大丈夫か?・・・)

甲斐姫「え!? うるさいからって無視ですか、お館様!」

甲斐姫の祖父が1561年に関東管領就任儀式時に上杉謙信に無礼者と扇ではたかれて以来、成田氏は北条氏の味方になりました。(謙信が関東出兵すると謙信についたりしますが)
1569年の越相同盟時に成田氏長(甲斐姫の父)は北条家の家臣となりました。
甲斐姫は1572年に生誕のようですが、ゲームなのでスルーしましょう(笑)


くのいち「氏康のダンナがカンカンで追いかけてきちった」
「しかも、イタ~イ感じの女連れてる」

甲斐姫「なんなのよあいつ! ゼッタイはっ倒す!」

信玄の章では
甲斐姫「お館様! ここは私に任せといてください!」に対して
くのいち「お館様、あの危険物はあたしが!」のやりとりがあります(笑)


信玄「おことを飼い慣らすとは、氏康もなかなか」
風魔小太郎「軽口を叩く暇は与えぬぞ、信玄…」

北条氏政・氏直父子に仕えた五代目風魔小太郎は、背丈は216cmもあったともいわれ、1580年、武田勝頼との黄瀬川の戦いでは、闇夜に紛れた攪乱作戦で目覚しい戦果を挙げているそうです。


謙信「呼んだか、宿敵」
信玄「…呼んでないよ」

氏康・氏政は謙信に再三、出兵を要請していましたが、武田氏の小田原城包囲や三増峠の戦いには、上杉軍の援軍はありませんでした。
1570年4月に北条氏秀が沼田で謙信に対面しともに越後に行き、謙信は自分の初名の景虎を与え、長尾政景の娘を妻に与えました。


信玄「悪いのう氏康。だがこのままでは潰し合いよ」
「ここで幕を引くが皆のため。して、天下に王道を…」

信玄は1569年12月6日、北条綱重の守る蒲原城を落とし駿府を再占領しました。
1570年、北条氏政が沼田へ出陣し信玄と対戦勝敗つかず。
8月に信玄は伊豆・韮山城や駿河・興国寺城を攻めますが、落城できませんでした。

氏康「ほざけ! それが胡散臭せえっつってんだ」

1569年から激しくなってきた北条氏と武田氏との戦いは、1571年10月の 氏康の死まで続きます。


兼続「北条は上杉の盟友」
「義を尊ぶ上杉の気概、ここに示してみせよう」
1570年 10月20日、ようやく謙信が上野へ出陣し、信玄は武蔵から兵を引きました。

信玄「あれの闘争に付き合わされ、おことも難儀じゃのう」
兼続「謙信公の戦を学ぶ、これも上杉家の・・・天下のため」

謙信時代に兼続は綾御前(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け、幼い頃から景勝に近侍していたと言われています。
江戸時代後期の講談や明治時代以降の講釈本などを中心に、兼続は謙信に才気と美貌を見出され、寵愛されたとの俗説があったようです。


1568年12月に信玄が甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻したことで、氏康は激怒し、氏政と武田信玄の長女・黄梅院を離婚させています。


武田軍が鉄砲を効果的に用い、北条軍に損害を与えたとも言われています。


猪俣邦憲「北条家のため、氏康様のため!やあああぁ!」

猪俣邦憲は北条氏邦に仕えたのですが、真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を、謀略によって奪取したことで、豊臣秀吉の発令した惣無事令違反として小田原征伐の理由となってしまう事態を引き起こしました・・・


信玄「北条の家臣は命を捨てて、わしを止めにきおるわ」
「これも氏康が家臣の命を大事にするゆえ…矛盾よな」
「世に王道を敷かねば、大事なものは失われ続ける」
「奴がそこに気づかんド阿呆だとは思いたくないがね」


信玄「出来の悪い子供を持つと苦労するのう、氏康」

残念ながら武田も北条も戦国を生き残れませんでした・・・

氏康「奴らは泰平の世で活躍できるように生んであるんだ」
「無能なのは奴らに泰平の世を用意できない俺ら親さ」
信玄「まさにその通り・・・刺さることを言うのう、おこと」


信玄と幸村の夢の合体攻撃

信玄「風林火山

幸村は1567年生誕にて、この時まだ2歳!
父の昌幸は信玄の目として鍛えられていました。


信玄「ときに氏康、上洛に付き合わんか?」
氏康「ふざけんのは面だけにしとけよ」


「三増峠の戦い」をクリアするとムービーがあります

氏康「貴様の上洛に付き合えとか抜かしてたな」
氏康「それで乱世は治まるのか?」

信玄「天下にずいと王道を敷けば」
氏康「天下だ? 王道だ?」

氏康「胡散臭えし柄じゃねえ」
氏康「俺の民はここにいる」
氏康「置いていけるか」

しゅんとなる信玄・・・
氏康「・・・だが」
氏康「その胡散臭えのが、貴様には似合いだ」

氏康「行け、信玄」
氏康「虎の背後に敵あらば、獅子が食い止める」

氏康「虎の行く手に敵あらば・・・」
謙信さんが仲間にしてほしそうに単騎でこちらを見てます(笑)
信玄「龍まで出おるか」

信玄さん、ガッハッハッと笑い・・・
信玄「ならば、いってくるかね」

氏康「いってきやがれ」
氏康「ちょっくら、天下まで



1570年に越相同盟がようやく機能し始め、上杉軍が上野へ出兵すると信玄は関東の反北条勢に外交戦を展開し、下総の簗田氏や安房の里見氏に北条氏を攻めることを働きかけます。
信玄は再度駿東郡に出兵し、深沢城と興国寺城を攻め、北条綱成の守る深沢城を約1ヶ月包囲し降伏勧告し1571年1月16日に落城させました。
1571年2月からは信玄は遠江へ出兵し、徳川家康との対戦で忙しくなり、北条氏とは小康状態になります。


1571年10月3日に氏康は53歳で病死しますが、越相同盟を見限り、武田との同盟を説きました。
1571年12月に北条氏政(35歳)は越相同盟を破棄、甲相同盟が成立しました。

1572年10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて、上洛するために甲府を進発しました



戦国無双3・北条氏康(河越夜戦) 1546年
戦国無双3・武田信玄&北条氏康(駿相の戦い) 1554年
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