旅がらすな日々

上州にふるさとを見つけ10年余。世界を走り回りたいけど他にもやりたいこといろいろ。ラン日記のはずが走らない言い訳日記

8月28日 丸木美術館へ

2013-08-29 08:05:27 | 日記
広島~長崎リレーマラソンを走ったときから、ずっとここへ来なくちゃと思っていた。

東松山にある丸木美術館。
「原爆の図」をはじめ、丸木夫妻が生涯かけて書き上げていった作品の数々が展示されている。
作品に描かれた史実は衝撃的。
どこぞの教育委員会だったら、子ども達に絶対見せようとしないだろうな。
確かに怖い。
でも現実はもっともっと怖いものだったはず。
丸木位里さんは広島出身、俊さんは北海道出身の画家。
原爆投下後、親族を救出に夫婦で広島へ。
実際に見た地獄絵、そして放射能の雨で被爆し、原爆症に罹り腸管出血が続き髪が抜けたが生命はとりとめた。

日本を占領したアメリカは、原爆について報道を禁じた。
だから現地を直接見ていない多くの人々は、ヒロシマ、ナガサキの実態を知らなかった。
1948年夏、夫妻は原爆のことも広島にことも誰も口にしなくなっている現実を見て
画家としてできることは絵で伝えること、と話し合い
実際に見たことを思い出しながら作成を続けた。

広島~長崎リレーを走り、沿道の人にチラシを渡すと、とても受けが良い。
原爆の悲惨さは伝えられ、風化されずに、刻まれている。
そして、こんな悲惨な状況を生み出す戦争を繰り返してはならないと、誰もが思う。
それなのに、今の日本では戦争の準備が進んでいる。
原爆や空襲や、抑留や引き上げや、親族を失い飢えに苦しんだ生活が悲惨だったというだけでは戦争を止められない。

丸木夫妻の生涯かけて描いた絵は夫妻の生き方そのもの。
年を重ねても、決して衰えない制作意欲、その前に学習意欲。
展覧会で世界をまわるたび、見に来た人との交流で新しいテーマができる。
さっそくそのテーマについて調べ、考え、現地を訪れ、当事者と交流し、作品を作り上げていく。
1971年(位里さん70歳) 原爆の図 第13部で広島に監禁されていた米人捕虜を、
1972年は第14部で強制連行で広島、長崎にいて被爆死した朝鮮・韓国人のことを 
1975年 南京大虐殺を
1977年 アウシュビッツを
その後も水俣、沖縄戦、足尾鉱毒をと描き続けた。

原爆で恐ろしいのは熱風だけではなく目に見えない放射能。それは原発も同じ。1989年、俊さんは原発を「ゆくり燃える原爆」と表現、「丸木美術館ニュース」に「原発止めないと原発に殺される」を連載。25年前の危惧が福島第1原発の事故で現実になった。原発分の電気料金は払いません、と料金を按分して水力火力の分だけ払おうとして東電とやりあい送電を止められたりもした。節電の工夫、太陽光発電などはその後もずっと続けている。
館内にエアコンはなく、よしずで日よけした大きな窓から川風が入り、扇風機が回る。


玄関には


都幾川の流れを見おろす、のどかな田舎の風景を残すところにある。




こういう日記を書くのは重くて、走行記ならちゃちゃっとできるのに、たったこの長さでもとても時間かかる。
美術館は17時までだから、そのあとジムに行けるはずだった。が、帰り道で買い物にあちこち立ち寄り、すっかり遅くなってしまった。