前に行った倶利伽羅古戦場に刺激を受けて、
県内の合戦・古戦場を巡ってみたくなった。
加賀の方には数か所の合戦場があるが、今回は手取川の戦い(手取川合戦)の地をブラついてみた。
手取川の戦いとは、あの戦国最強武将と言われた上杉謙信と織田信長軍団が唯一戦った場所である。
謙信にとっては生涯最後の戦いであるわけだから本来もっと有名でなければならない。
だけど川中島の戦いや長篠の戦いに比べても全然知られていないのはなぜか・・・
この戦いには信長が出陣していないこともあるが、
実際に戦いがあったかどうか怪しいことも大きい。
(ほとんど記録がないのだ)
早速、図書館で手取川の戦いの資料を探したが
まぁ~無いわ・・・。
でもオイラは小規模ながらも戦いはあったと思う。
信長軍団は、柴田勝家を総大将とし、
滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤新五・氏家直昌・安藤守就・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・原長頼・金森長近という
錚々たるメンバーで臨んでいる。
伝えられている戦いの状況は次の通りだ。
<ウィキ>
柴田勝家率いる織田軍先発隊は七尾城落城を知らないまま4万で進軍を続けたが、途中で以前から勝家と不仲だった羽柴秀吉が、意見の対立から勝手に離陣するなど、すでに内部統制が乱れていた。
一方、織田軍接近を知った謙信は、直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城に入った。対して、勝家は全軍が手取川の渡河を終えた所で初めて七尾城落城と謙信軍の松任城入城を知り、即座に撤退を下命したが、その途上、謙信直率の上杉軍2万の軍に追撃される。渡河に手間取った上に、背後に川を挟む不利な配置だった事もあり上杉軍の騎馬隊に猛攻を受けてしまう。織田軍得意の鉄砲も豪雨の影響で火薬が濡れ使い物にならず、もはや戦う術を失っていた。結果、織田軍が1000人余りの戦死傷者、さらに増水した手取川で多数の溺死者を出す大敗を喫したとされる。
まずその石碑がある呉竹文庫に行ってみた。
大正時代に当主が蔵書を公開したのが始まり。
呉竹文庫の周りで草むしりをしていた愛想のいい
おばちゃんが話しかけてきた。
「どうぞお庭までは無料ですので見ていってね」と。
(ありがとね)
その駐車場にその碑文はあった。
その横に手取川はあるが、ここが戦場付近だとすると
北国街道からすると少し下流過ぎる感じはした。
下流なので川が深すぎるのではないか?
でも戦場が街道沿いで起こるとは限らないし、
川を確認したが、水深は浅いし馬に乗っても渡れるレベルでした。
しかしこの場所は暴れ川のすぐ横でもあり、ぬかるみ過ぎて戦いなんてまともにできないほどだったに違いない。
そしてなにより上杉軍が速やかな松任城からの騎馬隊での追撃ができる道なんてあったのか?
ここが戦場となったのか・・・(手取川から金沢方面を望む)
手前が柴田軍、向こうが上杉軍。
反対側は増水した手取川、背水の陣ということ。
上杉軍側にこんもりとした森が見える。
行ってみよう
冨田少彦名神社とある。
いつからあるのか・・・・・。
木曽義仲がこの地を過ぎた時に武運を祈願したとあるから、
戦いの当時もこの場所があったことになる。
となれば上杉謙信がここに陣を張った可能性が高い。
・・・・・・・・・しかし、
上杉軍が松任城から大軍を運んだ道がないといけない
少し周りをブラついてみる。
おっ!面白いモン見っけ
早く福井までの延伸をって感じだね。しかしこのお宅は・・・
そして、横の田んぼを見てみると
田圃の真ん中に石碑があった。
読むと千代尼清水跡とある。
この附近は昔から冷泉が多く湧水が出た、松任ー美川の間を往来する旅人達の水飲場と休憩場となったとある。
そうかここには松任城下から美川(手取川河口)まで往来が頻繁だった道があったんだ。
ならば上杉軍も柴田軍が撤退の動きをした情報を掴み、
その道を駆けて柴田軍を追い込んだんだ!
追われた柴田軍は増水した手取川に飛び込んで多くの兵を失って敗走した。
そしてこの戦いは上杉軍の勝利となった。
はい、まとめの地図
自己満足だけど、
なかなかいいブラオイラ(手取川編)だった。
昼に義母のオゴリで
石川名物「8番らーめん」を食べました。
昔から変わらぬ味、旨かった。
【ヒゲ親父】
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県内の合戦・古戦場を巡ってみたくなった。
加賀の方には数か所の合戦場があるが、今回は手取川の戦い(手取川合戦)の地をブラついてみた。
手取川の戦いとは、あの戦国最強武将と言われた上杉謙信と織田信長軍団が唯一戦った場所である。
謙信にとっては生涯最後の戦いであるわけだから本来もっと有名でなければならない。
だけど川中島の戦いや長篠の戦いに比べても全然知られていないのはなぜか・・・
この戦いには信長が出陣していないこともあるが、
実際に戦いがあったかどうか怪しいことも大きい。
(ほとんど記録がないのだ)
早速、図書館で手取川の戦いの資料を探したが
まぁ~無いわ・・・。
でもオイラは小規模ながらも戦いはあったと思う。
信長軍団は、柴田勝家を総大将とし、
滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤新五・氏家直昌・安藤守就・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・原長頼・金森長近という
錚々たるメンバーで臨んでいる。
伝えられている戦いの状況は次の通りだ。
<ウィキ>
柴田勝家率いる織田軍先発隊は七尾城落城を知らないまま4万で進軍を続けたが、途中で以前から勝家と不仲だった羽柴秀吉が、意見の対立から勝手に離陣するなど、すでに内部統制が乱れていた。
一方、織田軍接近を知った謙信は、直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城に入った。対して、勝家は全軍が手取川の渡河を終えた所で初めて七尾城落城と謙信軍の松任城入城を知り、即座に撤退を下命したが、その途上、謙信直率の上杉軍2万の軍に追撃される。渡河に手間取った上に、背後に川を挟む不利な配置だった事もあり上杉軍の騎馬隊に猛攻を受けてしまう。織田軍得意の鉄砲も豪雨の影響で火薬が濡れ使い物にならず、もはや戦う術を失っていた。結果、織田軍が1000人余りの戦死傷者、さらに増水した手取川で多数の溺死者を出す大敗を喫したとされる。
まずその石碑がある呉竹文庫に行ってみた。
大正時代に当主が蔵書を公開したのが始まり。
呉竹文庫の周りで草むしりをしていた愛想のいい
おばちゃんが話しかけてきた。
「どうぞお庭までは無料ですので見ていってね」と。
(ありがとね)
その駐車場にその碑文はあった。
その横に手取川はあるが、ここが戦場付近だとすると
北国街道からすると少し下流過ぎる感じはした。
下流なので川が深すぎるのではないか?
でも戦場が街道沿いで起こるとは限らないし、
川を確認したが、水深は浅いし馬に乗っても渡れるレベルでした。
しかしこの場所は暴れ川のすぐ横でもあり、ぬかるみ過ぎて戦いなんてまともにできないほどだったに違いない。
そしてなにより上杉軍が速やかな松任城からの騎馬隊での追撃ができる道なんてあったのか?
ここが戦場となったのか・・・(手取川から金沢方面を望む)
手前が柴田軍、向こうが上杉軍。
反対側は増水した手取川、背水の陣ということ。
上杉軍側にこんもりとした森が見える。
行ってみよう
冨田少彦名神社とある。
いつからあるのか・・・・・。
木曽義仲がこの地を過ぎた時に武運を祈願したとあるから、
戦いの当時もこの場所があったことになる。
となれば上杉謙信がここに陣を張った可能性が高い。
・・・・・・・・・しかし、
上杉軍が松任城から大軍を運んだ道がないといけない
少し周りをブラついてみる。
おっ!面白いモン見っけ
早く福井までの延伸をって感じだね。しかしこのお宅は・・・
そして、横の田んぼを見てみると
田圃の真ん中に石碑があった。
読むと千代尼清水跡とある。
この附近は昔から冷泉が多く湧水が出た、松任ー美川の間を往来する旅人達の水飲場と休憩場となったとある。
そうかここには松任城下から美川(手取川河口)まで往来が頻繁だった道があったんだ。
ならば上杉軍も柴田軍が撤退の動きをした情報を掴み、
その道を駆けて柴田軍を追い込んだんだ!
追われた柴田軍は増水した手取川に飛び込んで多くの兵を失って敗走した。
そしてこの戦いは上杉軍の勝利となった。
はい、まとめの地図
自己満足だけど、
なかなかいいブラオイラ(手取川編)だった。
昼に義母のオゴリで
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昔から変わらぬ味、旨かった。
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