なんでもない毎日。

それなりに楽しい日々。

太閤の道(1)

2009年10月19日 | 伊達な旅
日曜日、久しぶりに相方と"殿の時間差追っかけ"に行ってきました。
場所は「太閤の道」こと勢至堂峠。





豊臣秀吉が天正18年(1890)に小田原で北条氏を滅ぼした後、奥州仕置をする為に白河から会津へ向かうのに通ったのが白河街道。
その白河街道に勢至堂峠があります。
この時に街道整備を命じられたのが伊達政宗。
秀吉は白河⇒長沼⇒勢至堂峠⇒黒森峠⇒背炙峠を越えて会津へ入ったのだそう。
1ヶ月程の突貫工事で勢至堂峠と黒森峠は何とか整備が間に合ったけど、滝沢峠の整備が間に合わず、背炙山を越えたのだそうです。
背炙山の頂上付近には"関白平"って呼ばれている景色の良い場所がありますよね。
蒲生氏郷も会津入りの際に、このルートを通っているようです。
この勢至堂峠も黒森峠も現在はトンネルが出来ているので快適に通過できますが、黒森峠の旧道を何度か通った事があるのですが、あの頂上の岩壁を切り開くのは難儀したでしょうね…。


まず須賀川市方面から勢至堂峠へ。
旧道が通れればと思ったのですが、旧道は通行止めとなっておりました。
そこでトンネルを抜けて郡山市側へ。
トンネルの脇に太閤の道へ向かう階段があるとネットで見たので、その階段を探したのですが、郡山市側に階段がありました!




階段?!
超草に覆われてますが…
一瞬怯みましたが、私達"殿の時間差追っかけ"隊、これしきの困難では引き下がりませんとも!
と、果敢に草ボーボーで足元が全然見えない階段を登りました。
階段を登った場所はちゃんと下草も刈られている山道となってましたが、登るに従ってまた道が草で覆われてしまい。
本当にこの道でいいのかな…って不安になった頃に道標を発見。



頂上の史跡まであと150メートルって!



道標付近の道はこんな具合。
たまに下草を刈ったり、人が通ったりしてるんだろうなって感じ。



道にごろりとあった石碑の一部?
道中の安全を祈った仏様かなぁとか思ったんだけど、どうだろう。



そして勢至堂峠に到着!
頂上付近はちょっとした空間が広がってました。



頂上に立つ藩界表石。
平成7年に発見されたそうです。

新編会津風土記 文化六年(一八〇九)
道ノ右ニ表石ヲ立テ是より西北会津領ト刻メリ
又道ノ左ニ茶屋アリ
此峠ハ安積 岩瀬 二郡ニ跨リ絶頂ヲ限トス
守山領勢至堂村ニ跨ル坂ナレハ勢至堂峠と称ス

(説明杭より)
ちなみにこの表石を立てたのは、元禄12年(1699)10月22日ともありました。


手元にある歴史春秋社「新版 上 会津の峠」の勢至堂峠の説明だと、天文14年(1545)に蘆名盛氏がこの道を作る前には、人一人がやっと通れる狭い道だったとか。
それを天正18年(1890)に伊達政宗が豊臣秀吉の命により、幅三間(約5メートルくらい)の街道に整備したのだそう。
会津、新発田、村上の藩主の参勤交代の路であり、江戸送り廻米が年間3万~5万俵も通過していたそうです。
重要な街道だったんですね。

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