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郡山合戦

2013年08月13日 | 伊達な旅
数年来の宿題であった「郡山合戦」について、ようやく図書館で資料を読んできました。

読んだ資料は全て郡山市富久山郷土史研究会で発行したもので、

・伊東肥前重信と郡山合戦
・平成15年 富久山の史跡と文化財
・創立40周年記念誌 ふくやまの旧蹟を辿りて
・富久山町歴史年表

以上4冊です。

郡山合戦とは天正16年(1588)にあった伊達vs蘆名・相馬連合の戦闘の事です。
この合戦で亡くなった伊東肥前の顕彰碑が郡山市富久山町の日吉神社境内にあるのは知っていたのですが、
他の史跡がどの辺りにあるのかを以前より調べてみたいと思っていました。

郡山合戦のおおまかな状況についてはこちらで。

本日読んだ資料の中で、印象深い内容がありました。


天正16年7月1日(天気よし)
佐竹義重は23日に出来上がった取出の城を会津の宿老4人に日替わりの番で守る事を命じた。
第二の取出を片平助右衛門を定番として守らせた。
伊達側も久保田城外の矢来の柵を一日一夜の交替制で守らせたのである。
片倉小十郎が白石右衛門と組んだが、白石が嫌って成実と組む。
これを知った伊達勢は小十郎と成実が組んだからには必ず合戦になるであろうと推察が出た。
(「伊藤肥前重信と郡山合戦」より)



小十郎&成実コンビなら必ず合戦だ!って思われるだなんて、どんだけこの人達、血の気が多かったんだろう。
ちなみにこのコンビの組み合わせはくじで決めたそうで、

7月2日 遠藤文七郎・富塚近江守
7月3日 田村孫七郎・白石右衛門
7月4日 片倉小十郎・伊達成実
7月5日 原田左馬助・浜田伊豆


となっていたそう。
白石さん、小十郎の何をそんなに嫌ったんだろう…。
で、実際に伊東肥前が討死したのが7月4日で、まさにみんなの予想通り。

今回読んだ資料では郡山城は西ノ内説を取っているのですが、
歴春さんの「安積」では駅前と西ノ内の二説があって、いまだ確定していないとあります。
以前は西ノ内の所に郡山城跡の案内板があったのですが、
記憶が正しければその辺りを発掘しても何も出てこないと聞いたか見たかした事がある…ような。
夜討川は現在せせらぎこみちとなっているのですが、たまたま手元にあった2002年版の地図には
ちゃんと夜討川って記載されいました。

政宗の陣所と小十郎の陣は郡山市富久山町福原陣場にあるとの事でしたので、
山王館を含めて3か所の史跡めぐりをしてきました。

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