なんでもない毎日。

それなりに楽しい日々。

郡山合戦 「山王館」

2013年08月14日 | 伊達な旅
最後に向かったのが、最初に政宗本陣が置かれていた「山王館」。

場所は福島県郡山市富久山町久保田の日吉神社です。



「伊東肥前重信と郡山合戦」の【郡山合戦(窪田合戦)想定図】で
天正16年6月16日陣場割当て陣場(現在)を政宗の陣所とす
と記載されており、それ以前に政宗本陣がここにあったという事なのかな?
郡山合戦で討死した伊東肥前の碑があります。








「伊東肥前の碑」
俗に仙台佛と言われ、天正16年(西暦1588年)7月
伊達・佐竹両軍が窪田城(久保田城)で相対した際、
伊達政宗の臣・伊東肥前重信は手兵30人余騎と共に
伊達政宗を救い戦死したので、伊達家ではその後
参勤交代の途上、必ずここに駕を止めて香花を手向けたと言われている。

郡山合戦 「小十郎坦」

2013年08月14日 | 伊達な旅
次に向かったのは小十郎の陣が置かれていた「小十郎坦」。

政宗本陣のあった麓山神社の西側に位置しており、
目印はコンビニと生コン屋さん(2013年8月12日現在)、そして墓地。



こちらも車では向かえないので、近場に車を停めて徒歩で向かいました。
小十郎坦入口って案内が一応立っていたのですが、長年風雨にさらされてはっきりとは見えなくなってました。











「小十郎坦」
天正16年(1588)6月の郡山対陣久保田合戦に際し
伊達政宗の重臣・片倉小十郎景綱の陣所であったので
その名がつけられた。
(「ふくやまの旧蹟を辿りて」より)



入口の案内もそうでしたが、小十郎坦の石碑も昭和31年に置かれたもののようで、
表面が剥離してしまっており、文字が読めなくなっている部分がありました。


郡山合戦 「政宗本陣」

2013年08月14日 | 伊達な旅
まずは「政宗本陣」より。

場所は福島県郡山市富久山町福原陣場の麓山神社。





288号線を郡山から三春へ向かって走ると右側、
道路沿いではなく少し奥まった所にありました。
神社へ続く道が細いので、車は別な所に停めて徒歩で向かいました。









天正16年の窪田合戦の折、伊達政宗の本陣が置かれた所で
麓山(羽山)、稲荷の二神の他に伊達政宗の守護神の塩釜の一柱を合祀して
戦捷の祈願をなし大勝を得たと言う。
その後、伊達家参勤交代には必ずこのお社に参拝したという記録の古文書が
今になお残る。
(「ふくやまの旧蹟を辿りて」より)



麓山神社の境内は周囲よりぽこっと高くなっており、小十郎の陣のあった場所を含め
【陣場四十八坦】と呼ばれた古墳群があったそうですが、
現在はこの2か所のみとなっているそうです。

郡山合戦

2013年08月13日 | 伊達な旅
数年来の宿題であった「郡山合戦」について、ようやく図書館で資料を読んできました。

読んだ資料は全て郡山市富久山郷土史研究会で発行したもので、

・伊東肥前重信と郡山合戦
・平成15年 富久山の史跡と文化財
・創立40周年記念誌 ふくやまの旧蹟を辿りて
・富久山町歴史年表

以上4冊です。

郡山合戦とは天正16年(1588)にあった伊達vs蘆名・相馬連合の戦闘の事です。
この合戦で亡くなった伊東肥前の顕彰碑が郡山市富久山町の日吉神社境内にあるのは知っていたのですが、
他の史跡がどの辺りにあるのかを以前より調べてみたいと思っていました。

郡山合戦のおおまかな状況についてはこちらで。

本日読んだ資料の中で、印象深い内容がありました。


天正16年7月1日(天気よし)
佐竹義重は23日に出来上がった取出の城を会津の宿老4人に日替わりの番で守る事を命じた。
第二の取出を片平助右衛門を定番として守らせた。
伊達側も久保田城外の矢来の柵を一日一夜の交替制で守らせたのである。
片倉小十郎が白石右衛門と組んだが、白石が嫌って成実と組む。
これを知った伊達勢は小十郎と成実が組んだからには必ず合戦になるであろうと推察が出た。
(「伊藤肥前重信と郡山合戦」より)



小十郎&成実コンビなら必ず合戦だ!って思われるだなんて、どんだけこの人達、血の気が多かったんだろう。
ちなみにこのコンビの組み合わせはくじで決めたそうで、

7月2日 遠藤文七郎・富塚近江守
7月3日 田村孫七郎・白石右衛門
7月4日 片倉小十郎・伊達成実
7月5日 原田左馬助・浜田伊豆


となっていたそう。
白石さん、小十郎の何をそんなに嫌ったんだろう…。
で、実際に伊東肥前が討死したのが7月4日で、まさにみんなの予想通り。

今回読んだ資料では郡山城は西ノ内説を取っているのですが、
歴春さんの「安積」では駅前と西ノ内の二説があって、いまだ確定していないとあります。
以前は西ノ内の所に郡山城跡の案内板があったのですが、
記憶が正しければその辺りを発掘しても何も出てこないと聞いたか見たかした事がある…ような。
夜討川は現在せせらぎこみちとなっているのですが、たまたま手元にあった2002年版の地図には
ちゃんと夜討川って記載されいました。

政宗の陣所と小十郎の陣は郡山市富久山町福原陣場にあるとの事でしたので、
山王館を含めて3か所の史跡めぐりをしてきました。

まぜるなキケン!

2010年12月04日 | 伊達な旅
海寶寺の山門前の道は「伊達街道」と呼ばれていたそうです。
その伊達街道を隔てたところの住所は“伏見区桃山最上町”。
そう、伊達さん家のお隣に最上さん家があったんです。
で、





海寶寺前の道で記念撮影!
アホでーす。
でも楽しい!!





誰の発案で伊達家と最上家の伏見屋敷をお隣同士にしたのか。
で、左に正宗町、右に最上町な道を散策していてスゴイものを発見。




「最上正宗町内案内図」

まぜるなキケン!な看板に大興奮!

正宗町の住所表記を撮影できなかったけど、これを撮影できたからよしとした(笑)
最上正宗とか、殿が見たら憤死しそうじゃない?

今はこの辺りは住宅地なんだけど、昔は大名屋敷が立ち並んでいたんですね。
今でも伏見区桃山の地図を見ると、町名に名残があって面白いですよ。
景勝町とか冶部町とか。
春先に購入した伏見城下古地図を見ながらだともっと楽しい。
この古地図、持ち歩けるサイズならいいのに。
そしたら古地図を持って散策する人増えそう。

この後、ぶらぶらと歩いて桓武天皇柏原陵へ。





さらに歩いて伏見桃山城運動公園にある伏見城天守閣へ。




ホンモノではないけれど、結構かっこよかったこのお城。
内部は非公開となっておりました。
最上階からの景色は良さそうなんだけどな~。
本当のお城があったのは、現在は明治天皇伏見桃山陵のある辺りらしいです。
住所が“古城山”だし。
冶部少丸って住所もあって、冶部池なんてのもあって、散策しているだけでもどんどん住所が変わっていくのが面白いな、なんて思いながら町中へ戻りました。





最後に訪れたのは御香宮神社。
この神社にある表門が伏見城大手門なのだそう。





境内には“伏見城跡残石”なるものもありましたが、説明が一切無かったですよこれ。

こういう風に普通の町中を散策する観光って始めてだったけど、以外と面白いですね。
住民の方に不審がられないかってのは、ちょっと心配だったけど(苦笑)
これにて今回の1泊2日、京都旅行は終了です。
次はどこへ行こうかな?

モッコク

2010年12月03日 | 伊達な旅
伊達下屋敷を後に今度は伊達上屋敷のある伏見区桃山正宗町へ。
この地にある海寶寺に伊達政宗お手植えと伝わるモッコクがあるのです。





「伊達政宗の伏見屋敷」
この海寶寺境内を含む「桃山町正宗」は、独眼竜の異名をとった仙台藩の藩祖・伊達政宗の伏見屋敷があったところである。
政宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ、多くの重臣やその妻子などを住まわせた。
その数は常時千人以上にも及び、屋敷一帯は「伊達町」とも称されたという。
政宗自身は慶長4年(1599)ころまでここに住み、慶長6年に上洛した際にも約1年間を過ごしている。
政宗の伏見屋敷は、この地のほか、上屋敷の南西にほど近い場所と深草の地に下屋敷があり、計3箇所であったとされる。
深草の下屋敷付近には現在も「深草東伊達町」「深草西伊達町」の地名があり、その名残を留めている。仙台市(案内板より)

ここ京都なんだけど、この案内板は仙台市で設置したみたい。
仙台の力の入れようのすごさを垣間見た瞬間(笑)





桃山時代の名木 天下無二の木斛
古より木斛なきを庭園と云い難し
寛永3年仙台太守中納言伊達政宗公 此地に住居手植せる
桃山時代唯一の名木也

とか

区民の誇りの木 モッコク

とか

次世代木 正宗の木斛

とか書いてありました。








この海寶寺は観光寺ではなく住宅街にあるお寺で、ほかに参拝している人もおらずひっそりとしていました。
ここは事前に予約(4人以上で4日前まで)すると普茶料理を食べることができます。
一人旅なのでもちろん諦めました…。

伊達町

2010年12月02日 | 伊達な旅
京都旅行2日目は宇治から。





とてもよい天気で、コートがいらなかった。
通圓で抹茶ソフトクリームを食べるため、開店時間まで宇治上神社まで散策してきました。
その後、京都駅へ移動するも、コインロッカーと手荷物預かり所が全滅で、諦めて伏見稲荷へ移動して荷物を預けてからお昼ご飯。
きつねうどんとおいなりさん、おあげが甘くてちょっとびっくり。
そして今回の旅の目的その2、伏見の伊達邸跡廻りに出発!

まずは下屋敷跡のあった伏見区深草西伊達町・東伊達町へ。





「伊達町」交差点。











なんかもう“伊達”って見るだけで楽しくなっちゃう。
いいなぁ住所が伊達で!

下屋敷は町名として痕跡が残っている以外、特に何もありません。
が、伊達スキーとしては抑えておくべき地かと思って。
住宅地をカメラ片手に散策するのって、結構勇気の要る行為ですね…(苦笑)

向羽黒山城跡(2)

2010年10月26日 | 伊達な旅
ニ曲輪の西側にある階段を下ると桝型虎口が見えてきました。





かなり立派な虎口でした。





巨石を積み上げた石塁で固められていたそうです。





こんなにしっかりと残っているとは思っていませんでした。


虎口を出ると、今度は空堀と土橋がありました。





この土橋から先の道は、現在は残っていませんでした。

この後、駐車場へ戻り、次に三曲輪駐車場に移動して散策しました。
一曲輪へも行こうとしたんだけど、ここは途中までで引き返してきました。
けっこう登るらしいんですよ…。





今回、ようやくこのガイドブックが日の目を見ました!
城跡がかなり広大で、今回はニ曲輪地区近辺しか回れなかったの。
結構歩いたんだけどね、でもホントすごい山城なんだと実感できました。
“東北最大級の山城跡”って名乗るだけの事はあると思いました。

わんこと城跡散策中だったおっちゃん曰く、以前は笹薮だらけだったのに最近整備されたって。
きっと破壊ドラマのおかげだね、まったくかすりもしなかったけど、ここ。





お茶屋場からの眺めも素晴らしかった。

城跡見物の人もチラホラいました。
そしてキノコ狩りに来ている人も

えぇ、私達もここへは城跡見物&キノコ狩りに訪れたのでした
流石に両方って人には合わなかったけど(笑)

向羽黒山城跡(1)

2010年10月25日 | 伊達な旅
日曜日に相方と友人と3人で、会津美里町にある向羽黒山城跡を訪れてきました。
会津美里町というより会津本郷って言った方が場所が分かりやすいかも。




向羽黒山城跡は永禄4年(1561年)から同11年にかけて築かれた山城の跡であり、山の中には数多くの削平地(曲輪)、土塁、空掘り、堀切、虎口(入口)などが存在し、城跡の形態が良好な状態で残されています(案内図より)

蘆名盛氏の隠居城として築城し、家督を譲っていた盛興が亡くなった為に黒川城へ戻ったので廃城となったとの伝承があるようですが、実際には伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝まで使用されていたようです。
と言う訳で、私達的にこの城跡も殿関連史跡という認識で。
実際に行くと、こんな城が隠居城な訳あるか!って思う。
素人目にも「完全に軍事拠点だよここ」って思える城でした。

白鳳山公園として整備されており、城跡内に車道(林道)も駐車場も遊歩道もあるので、麓からえっちらおっちら登るもよし、車で一気に上まで行くもよし。
今回はニ曲輪の駐車場まで車で向かいました。



ニ曲輪駐車場から見た車道。
左手にある階段を登るとニ曲輪があり、堀切の部分に道が通っています。



ニ曲輪からの眺め。
天気がイマイチでしたが、目下に大川(阿賀川)が流れ、奥に鶴ヶ城や磐梯山を望む事が出来ました。



同じくニ曲輪からの眺め。
向羽黒山城があるのは白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)の岩崎山全域と羽黒山の一部なのだそうですが、左下にちょこんと頭を覗かせているのが羽黒山かな。

ここからは会津盆地が一望でき、平和な時代なら「眺め最高!」って感想を抱くだけでしょうが、この城が築かれた時代を考えれば、私ですら「ここに見張り台建てよう!」って思うくらいの場所。
どうして隠居城だなんて伝承されたんでしょうね…。

ぐるり城廻

2009年12月05日 | 伊達な旅
本日、外出する用事があったので、思い切ってついでに城廻もしてきました。
思い切らないと外出しない出不精な人なもので…(笑)

まずは高倉城跡。



郡山市史の郡山合戦図において、伊達政宗本陣となっているのが高倉館でした。
どの小説だったか、殿は本宮城にいて行水中に合戦の火蓋が切られた事を知り、間に合わないので先に伊東肥前を向かわせた、ってカンジに書かれていたので、てっきり殿は本宮城にいたのかと思ってたの。
でも、本宮城だと流石に戦の音(鉄砲だよね多分)は聞こえなさそうだよな…と疑問に思っていたのですが、高倉城にいたのならこの疑問は解決です。

本日は1人で訪れたので、高倉城跡の周囲をぐるりと1周しただけでしたが、高倉城登山口がある山清寺の位置を確認してきました。
次は相方を誘って登ってみようっと!


次に訪れたのは安子島城跡。



郡山市史の年表では
天正17年(1589)5月4日
伊達政宗、蘆名義広の臣安子島治部少輔を安子島に攻め落とす

とありました。



石碑が立っているのですけど、49号線から磐越西線を挟んですぐの所だったんですね、知らなかった。
49号線から向かうと石碑のある辺りは道路と同じ高さにあって、なんでこんなところに城跡?って思いそうですが、県道8号線から向かうと城跡に向かって登りになるんです。
(49号線も郡山市内から磐梯熱海方面へ走ると、安子島直前で大きくアップダウンする場所があるんだけどね。)
県道8号線から安子島の集落を見ると、安子島城もこんな風にあったのかなって思うと共に、こっちの道が昔の道だったんだろうなって事も思いました。


最後に訪れたのは片平城跡。



愛宕神社のある辺りとは調べたのですが、持参した地図では良く分からず、この山かも…と当たりをつけて周囲を走っていたら、ビンゴ!



山ノ井公園と王宮伊豆神社のある道沿いを走っていて発見。



この片平城は郡山市史の年表では
天正17年(1589)10月22日
伊達政宗、黒川をたち片平に陣す

とあったので、多分片平城じゃないかな?と思って。
蘆名氏を滅ぼした後、須賀川の二階堂氏を滅ぼした、その際に殿は片平に寄っているみたい。
伊達政宗コンチクショー祭り(相方命名)こと「松明あかし」が始まるきっかけになった戦いです。
福島県は殿にとってアウェーな土地なんだよな…(笑)

城跡まで案内がもう1箇所あるので迷わずに行けましたが、城跡入口が民家の脇にあって…2軒あったのですが両方にわんこがいてめっさ吠えられた(苦笑)
さらに住人の方だと思うけど車が停まっていたから、チキンな私はあっさりと退散。
手前に空き地っぽい所があったような気がするから、そこに車を置いて歩いた方がいいかも…道が狭くて路駐はムリだし。
なんなら山ノ井公園の駐車場に停めてもいいし。
ここも相方を誘って行ってみようっと。

ちなみに近くにある山ノ井公園、万葉集の「安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに」にある"山の井"がある場所です。
でもこの安積山、こことは別に高倉城跡近く、日和田町に安積山公園ってのもあって、一体どっちなんだと(笑)
松尾芭蕉と曽良も困ってるじゃない。


郡山市史だけじゃなくて、他の地域の史料を見れば、もっと殿の足跡がわかるんだろうな。
…と踏み入れてはいけないゾーンにちょっとだけ足を踏み込んでしまった気分。
今回は高玉城跡はパスしたので、もっと知識を増やしてから再訪しようと思います。
いやホント、思いつきで訪れたので行き当たりばったりで、ナビを持っていかなかくて、見ていた地図が1:100,000(笑)
よくたどり着けたわ…。