浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

ICT教育を学んで

2013-01-25 14:30:35 | 社会・経済
 表題についての前に、昨日、政治哲学者である丸山真男先生の小論文、「であることとすること」についての感想を途中まで書きかけましたが、自分自身の考えがもう一つまとまっていないので、削除してしまいました。一部掲載してしまったので、見た方にはお詫び申し上げます。時を見て取り上げますのでお許しください。

 さて、タイトルのICT教育についてです。ICTとはInformation and Communication Technology の略で、情報と伝達の技術、例えば電子黒板やデジタル教科書を使って、教育を進めようというものです。、

 岐阜市では、来年度の重点施策として、全小・中学校にこの電子黒板とデジタル教科書を3億円強の予算を使って導入しようとしています。確かにこうした技術の進展は目覚ましいものがあり、利便性からパソコンや携帯が身近になっていることを思うと、教育の分野でも活用されることは十分にあり得ることです。しかし、教育は人が行うものであることから、機械技術に頼ってしまうような何かしら不安と問題を感じずにはおられない印象があるのも事実です。

 岐阜市には教育研究所があり、このICT教育の研究も行っていると聞きましたので、導入前に先立ち見学に行ってきた次第です。

 結果からいえば、ICT教育も教え方の手段のあくまで一つであり、すべてそれが担うと言うものではないということです。情報が多く、視覚的、聴覚的な技術によって、子どもたちの興味が湧き、教える手段として選択肢が多いということです。教科書本文の拡大、挿絵・写真の表示、アニメーションの表示、豊富な参考資料、本文の朗読や発声、ポイントの表示や書き込みなどの機能が、教師にとっても生徒にとっても効果的に役立つということです。

 こうした教育手段の情報や選択肢の拡大は、一方で、時間的な制約の中で、教えるほうの力量にかかってくる可能性が大きくなることも懸念されます。教える先生によって教える内容が違ってきてしまうとか子どもの興味が本来教えるべきところではなくなると言った、教育範囲の自由度が広がるゆえの問題点も考えなければなりません。また、機械に頼ることで、子どもたちと向き合うことがなく、教えるノウハウだけの教育であってはならないわけです。

 つまるところ、繰り返しになりますが、教育は人であるということであり、何といっても教える側の情熱とそのためのスキルアップが求められるということです。この点において、教育研究所の果たす役割は大きく、日々の問題もさることながら、大所高所に立った教員の向上をめざしてもらいたいものです。

 最後に、2日前に紹介した西部邁先生の本に以下のようなことが載っていますので、少し長い文ですが紹介します。

 「技術の合理性が近代に対して結いつの信頼を与える、という考え方は認められない。技術の合理性は、その技術がどんな信頼できる『目的』のために使用されるかということに係わってくるのであり、そしてその目的は技術によって与えられないのである。さらに、技術という手段は、他の(位階的、慣習的そして価値的な)手段と抵触することがあり、その場合には、技術がほかの手段よりも信頼に値するかどうか改めて問われなければならなくなる。」(中公文庫P170)

以上



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