文治2年8月15日の西行と源頼朝 1

【文治2年8月15日の西行法師と源頼朝会談を考える】

吾妻鏡の文治2年(1186)8月15日と翌16日に西行が、奥州への砂金の勧請に行く途中、鎌倉に立ち寄り、頼朝と会談したという有名な話がある。しかしこのエピソードについて、これまで歴史的な解釈はされてこなかった。頼朝に貰った銀の猫を、門外の幼児に渡して、物に固執しない西行法師を物語る所謂「西行伝説」のひとつとして通俗的に解釈されてきたに過ぎない。

しかしこの時期の西行の鎌倉巡覧エピソードについては、今後さまざまな分析が出てくるものと思われる。

周知のように、表向きは、奥州に行って、東大寺再建のために奥州の特産物である砂金を勧進しに向かったということであるが、西行は明らかに鎌倉の周囲を何かしらの明確な目的を持って歩いていたと考えられる。

先に結論じみたことを言ってしまえば、それは鎌倉が戦争の準備を始めているかどうかであろう。あるいはもっと直接的に言えば、頼朝が清盛に代わって本気で権力を独り占めにするような腹があるかどうかを見極めることである。

この時期の日本の社会を政治構造的にみれば、平家滅亡後、京都、鎌倉、平泉と三すくみの危ない均衡状態にあったと考えられる。頼朝からすれば、平家滅亡後、鎌倉に確固たる東国武者を中心にする政治体制を敷こうと考えていた。しかし京都の後白河院や公家の中には、弟義経を担ぎ、鎌倉に権力が移るのを阻止しようとする動きがある。彼らからすれば、せっかく平清盛の専横から逃れられたのに、今度は鎌倉の頼朝がトンビが油揚げをさらうように、京都の権力を蔑ろにするようなことではたまったものではないという気持があったと思われる。しかし公家というのも、悲しいもので、武力がないから、結局長いものには巻かれて生きてゆくしかない。

そこで必要なのは、三国志の「天下三分の計」のような策である。だから、どうしても奥州藤原氏の政権を維持させる必要がある。何よりも奥州には、鎌倉を上回る10万を越える大都市「平泉」があり、豊富な経済力と18万の兵力がある。そこに軍事の天才義経が大将軍として坐っていたら、この時期の鎌倉軍では、攻め入ることは難しい。

西行法師は、とかく謎の多い人である。若き日は、同年生まれの清盛と共に鳥羽院(1103-1156)に北面の武士として仕え、突然世を儚んだのか、出家をすると、歌を志し、奥州平泉へ旅をした。かの地では同年代と考えられる同族の藤原秀衡と親交を結んだと思われる。その後も、高野山や吉野を始めとして全国各地を廻り庵を結んで、各地に様々な西行伝説を遺した。累代の武家の家に生まれた西行は、その突然の出家の原因が、後白河院の生母である待賢門院(1101-1145)との道ならぬ恋ではなかったかとの艶っぽい説もあり、その女性の息子である後白河院との間で何らかの接点があったと思われる。老齢(68歳)の身となった西行が、ほぼ40年ぶりに奥州に向かうのであるから、この時期の国内の内情を考えれば、やはりそれなりの裏の意味(意図)があると考えるのが自然である。


吾妻鏡の最後にも、「秀衡は一族である」という下りがある通り、藤原秀郷の流れを汲む同族である。そして今義経は、この時、義経は前年の11月吉野山に現れ、衆徒に追われて、吉野から多武峰に入ったという風聞があったが、以前として行方は知れなかった。

頼朝にとっては、眠れぬような日々が続いていたに違いない。平家を破って一気呵成に、奥州に攻め入りたいのであるが、その大義がない。ましてそこに義経が加わったならば、大変なことになる。是が非ではない。義経の愛妾静は、西行が鎌倉に現れる1ヶ月前に、義経の子を出産し、男児であったために、殺害されてしまった。まだ静と母磯禅師は鎌倉にいる。

西行がやってきたのは、そんな時期である。西行鎌倉入りの隠れた目的は、鎌倉の動向を探り、頼朝の本心を聞き出すことではなかったか。西行は、わざと怪しまれるような格好で鎌倉の中心街を歩き回って頼朝に召し出されることように仕掛けたという推測ができる。そのように考えると、この会談は、西行と頼朝という大人物の腹の探り合いということで、ひどく緊張感を持ったものに見えてくるのである。

では早速、吾妻鏡文治2年8月15日、16日の部分を、現代語訳してみよう。

8月15日 
頼朝公が、鶴岡宮に御参詣なさると、一人の老僧が鳥居の辺を徘徊している。頼朝公は、これを怪んみ、梶原景時の息子の景季を遣わして、名を尋ねさせたところ、「私はかつて佐藤兵衛尉憲清と呼ばれておりましたが、出家して法師となり、今西行と名乗っております」と言われた。

西行法師は、八幡宮にお詣りをした後、頼朝公に拝謁した。頼朝公は、法師に「どうか法師、和歌の事などを教えてくださらぬか」と、申されると、法師も「承知いたしました」と申し上げる。

お二人は鎌倉の宮や寺などを廻り神仏に祈りを捧げた。頼朝公は、法師をご招待するために、一足早く御所にお帰りになり、座を整えてふたりは親しく語り合われた。

まず、頼朝公は、「歌の道」次に「弓馬の事」について、さまざまお尋ねになった。

すると西行法師は、このようにお答えられた。
「弓馬の事は、まだ出家前、訳も解らぬままに我家に伝わる家風を受け継いだものでございましたが、保延三年(1137)八月の出家の折に、藤原秀郷朝臣以来、九代に渡って本家に伝わってきた兵法書を焼失してしまいました。(前世での)罪業が原因でしょうか。以前には少しばかりは覚えておりましたが、今はすっかり忘れ去ってしまいました。歌を詠むことは、ただ花や月を見て心が動くのに任せ、これを三十一字に凝縮するつもりで作っているだけのことで、とくに奥義などまったくございません。ですから人にお教えするほどのものは何もありません。」

それでも頼朝公が熱心に聞くと、弓馬の事について、武具のことを申し述べられたので、これを藤原俊兼に書き取らせた。そうしたお二人の歓談は夜遅くまで続いた。

8月16日
日は変わり翌日になる。8月16日の午前2時頃、西行法師は、御所を退出なさった。この時、頼朝公は、「夜も更けておりますので」と、しきりにお引き留めになったのであるが、それでも法師はお断りになる。すると、頼朝公は、銀で作った猫を法師に贈られた。後で聞くところによれば、西行法師は、頂戴した銀の猫を、門外で遊んでいた幼な子の手に握らせて鎌倉を去っていったということである。

西行法師は、勧進職重源上人の要請を受け、東大寺再建のための砂金を勧進するために、奥州に向ったのであった。この途中、鶴岡八幡宮に巡礼したとの話である。

ちなみに奥州の陸奥守藤原秀衡入道は、西行上人と同じく藤原秀郷流の一族である。(佐藤訳)


つづく
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