平治物語の東下りを再現する 2

【東下りの時に義経と頼朝は既に会っていた?!】

さて平治物語の東下りの真相を続けてみる。

【その夜、ふたりは鏡の宿に到着した。夜が更けると、遮那王は、自ら鬢(もとどり)取り上げて整え、懐より取り出した烏帽子を、しっかりと被り、紐をキリリと締めると、すでに夜明け間近となっていた。

陵助が「あっという間に御元服なさいましたな。さて御名はいかになさいますか」と申し上げれば、遮那王は、「烏帽子親もないので、自ら源九郎義経と名乗りたいと思う」と答えたのであった。

ふたりは、そこから揃って、黄瀬川に向かった。義経が、そこで、「北条家へ是非寄ってみたいものだ。」と言えば、陵助は、「父は北条の殿にお目にかかったことはあるのですが、この頼重は今だお目にかかったことがないので、まずは後日、手紙にて、その旨をお伝えし、お目通り願おうと思います。」と言い、すぐにその願いが叶ったのであった。

ここに義経は、一年近く忍んでおられたが、武勇に優れ、山立(やまだち)や強盗を懲らしめるなどして、それがとても常人の技とも思えず、陵助が、「流石に殿はどこに居ても、キリが袋を通すごとく目立ちますので、たちまち京の平氏にも伝わりましょう」と懸念を申し上げれば、義経は「では奥州へ参ろう」と言って、すぐに伊豆を越えて、兄兵衛佐殿(ひょうえのすけどの:頼朝)にご対面を果たしたのであった。

兄君は、弟義経が奥州に向かうという思いを聞いて、「もし平家が、そなたの噂を聞いたならば、仕方がなかろう。直ちに奥州に発つがよかろう」と言われた。さらに続けて、「(源氏代々の郎等)上野国の大窪太郎の娘が、十三歳歳に熊野詣でのついでにと我らが父君(義朝)に、お目にかかっていたが、娘は旅の途中で、父に死に別れた後、『人の妻になるのであれば、平家には嫁ぎたくございません。どうせだったら奥州の秀衡という殿の妻となりたいものです』と言って、娘は夜逃げをし奥州に下り、秀衡の郎等の信夫小大夫(しのぶのこだいふ:佐藤元治)という者と、道で行き会い秀衡に会う前に横取りされるようにして嫁ぎ、二人の子をもうけたとのこと。今でも後家分として、うらやましいほど睦まじく暮らしているようだ。だからまずはそこを尋ねて行きなさい」と言って、文を書いて奥州に向かわせたのであった。 (現代語訳佐藤)】


この部分での注目点は、何と言っても、黄瀬川の附近に、義経が一年ほど居たということである。承安四年(1174)の3月3日に京を発っているのだから、承安5年(1175)まで滞在したことになる。ここには、義経の兄で今若と呼ばれた阿野禅師全成が居た場所であり、伊豆の頼朝とも近い、もしかすると、はじめ義経は、全成を頼ってここにやってきたとも考えられる。ともかく、 兄二人と会って、義経の思いは、ますます平家打倒に傾いたことは想像に難くない。

また信夫庄司佐藤元治の妻の話も登場するが、この話は奥州の奥州藤原氏の妻を娶っているとする佐藤氏の系図(二代基衡の弟清綱の娘)と異なっており、考察の必要がある。また佐藤氏と板東の武者たちとの交流振りも分かる。最も重要なのは、佐藤一族の奥州政権における立場というものが、この平治物語の記述から明確になる。つまり頼朝は秀衡に会う前に信夫庄司の佐藤元治に会いなさいと言っていることになる。

ともかく頼朝が義経の奥州入りに一役買っていることが事実だとすれば、治承四年(1081)10月21日の日の吾妻鏡の黄瀬川の陣の対面の時の頼朝の発言が光りを帯びてくる。つまり、以前の義経を知っているが故の「歳の頃を考えれば、奥州に発った九郎かもしれぬ。早く会いたいものだ」という発言がよりリアリティを増すのである。吾妻鏡で、更に二人は、互いに往時のことを語り合って、懐旧の涙を流したとある。懐旧とは、むかし見知った者同士が、むかしを追想し、懐かしむことを言う言葉である。黄瀬川の陣ではじめてあった兄弟なのか。それとも、既に平治物語の語るように東下りに際にすでに会っていたのか。

私は、東下りの時点で、会っていたとみるのが自然のような気がするのである。

つづく
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