陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

豊かな財はすぐそばに

2022-05-07 | 自然・暮らし・天候・行事

連休を前にした穏やかな気候が続いています。
コロナ禍でもあり、海外情勢の凄惨さが伝えられるなか、家族ともどもゆったりした時間を過ごすことができました。

我が家はいつもとある海産物を贈答品として購入しています。
その卸売業者さんがおまけでくれる、塩漬けされた芯の部分が冷蔵庫で大量に余っていました。正当な売り物にくらべて、形がいびつでなんとなく不気味。捨てたらいいのにと思っていたものの、塩抜きしてから茹でてみたら。おかずの一品として意外とあっさりしておいしい。そのゆで汁も塩分とミネラルがしみだしているので、出汁としてもおいしい。味噌汁に足すことにしました。

私が管理している空き家の庭畑には、この時期から大量の雑草がはびこりはじめます。
毎年毎年、刈ったり、除草剤を散布したり。雑草はにっくき目の敵でした。ところが、ある土地の除草作業に嫌気がさして、昨年来から放置していましたところ。青々とした尖った雑草が一面にびっしり生え出しました。スギナという、その雑草は農家にとっては邪魔な駆除の対象。しかし、何気なく調べたところ、食べられるとのことで。試しに茹でて塩もみしておひたしにしたら、これもなかなかのお味。かつお節やすりごまを添えるだけ。しかも、体にいいとのことで。

同居人が退院後、食事療法に気遣い、野菜や海藻中心の生活。
お菓子やジュースは控えめに、おかずのバリエーションを豊富にして、油料理や買い置きの総菜に頼らないように。そうしたら、なんとなく、からだが軽くなり、臭いもしなくなり、健康になりました。気分も上向いています。

今年初めから確定申告後まで数字に追われ、仕事でも疲弊し、とても荒れていました。
でも食生活を変え、身近なものを大切に再利用していく考えを取り入れたら、些細なことも気にしなくなりました。家の中の不要なもの(プラスチック製の服や容器など)を捨ててしまったのもよくて、空間が広くなったせいかもしれません。

庭畑は完璧に管理しようとせず、ほどほどに伸びた草だけこまめに刈ればいいや、と思えば気楽。
雑草が食べられるとなれば、除草剤も買わなくてよくなった。しかも、野菜代わりのおかずの素材が無料で取り放題。イヤイヤな駆除が、楽しくオイシイ収穫作業になったのです。

庭畑をあちこち歩いてみると、様々なことに気づきます。
気持ち悪いと思っていた小動物や虫にも、自然の働きのなかでの役割があること。だからむやみには殺さない。粉瘤のように土が小さく固まったり、赤土が含まれる部分の土は、いい植物が育っていること。たったの一週間なのに、翠の成長がすさまじいこと。それだけ、土地は豊かなエネルギーを蓄えていること。広々とした景色の中にいると、気持ちがのびのびとして安らぐこと。無理に旅行なんかに行かなくたって、こんなにも豊かな自然が自分のものであることに気づかされます。

化学肥料をあまりやりすぎると、土が駄目になる。
落ち葉や生ごみなどを発酵させた堆肥を含ませたほうが、土地は自然に回復していく。ホームセンターの栄養剤や培養土には、化学肥料が含まれており、作物を肥大化させるが、環境にいいとは限らない。自然の力に任せた方が、土は育つ。昔の人の知恵はとても偉大なのです。生ごみを土の入ったバケツに溜めて発酵させてから、庭畑に埋めていますが、その部分だけ掘り返すので、雑草もさほど生えなくなりました。除草と土壌改良を同時にやっているようなもの。当然、ゴミも減ったのでゴミ袋も無駄に買わなくてもいいのです。

お店で売っているような、人工的に問題を解決する道具やら薬剤やらを買わなくても、ほんの少しの手間をかければ、自然とうまく共存できてしまうのです。なぜ、こんなことに今まで気づかなかったのでしょうか。手早く除草できるからと、いろいろ道具を買い揃えてもすぐ再生する。そんな雑草たちが憎らしくてたまらなかったのが、嘘のようです。むしろ、今はがんばって伸びてほしいとさえ願うようになります。

なぜすぐ生えるのか、消えてくれないのか、繰り返すのか。
うんざりした自分の黒い感情と向き合うこと。なにもかも完璧にこなさなくていいと思うこと。他人からどう思われようが、自分なりの気持ちのいいスタイルを貫くこと。敵だと思っていた相手とも共存の道を探ること。

なんだか憑き物が晴れて落ちたような気がしました。
過去に諍いのあった事業者さんに数年ぶりにコンタクトをとったり、不義理を詫びたりして、積年のもやもやが薄らいでいくのを感じています。なぜ、あのときは意地を張って、相手の悪所ばかりを探して謝らなかったのかと悔やまれたのです。

けっして経済的には恵まれているわけではなく、物価も高騰していて、不安はつきないけれども。
同居人の医療費がかかったり、リフォームすべき箇所もあったりと懸念材料はあるけれども。いざとなったら、この不出来な庭畑があれば食べていけるのではないか、そんな安心感が私をこころ穏やかにしてくれました。インフレになっても、貯蓄が目減りしても、自然は自分を裏切らない。自然に反することをしない限りは。そう信じることができます。お金がないないなどと嘆いて負のオーラをまき散らしても、なにもはじまらないのに。

空き家の管理も負担だと思っていました。
けれども、意外と使える道具があったり、現住まいよりも立地は不便だが都会人が憧れる田園ライフを実現できたりしている。市街地の煩わしさからも逃れられ、静かで落ち着いた時間を過ごせる。これはとても贅沢なことなのではないでしょうか。

無駄だと思っていたことが、実はとんでもなく豊かで美しく、明るいものであること。
すべては自分の気の持ちよう次第。理屈ではわかっているのに、感覚に沁みこませなかれば理解できなかったことです。

美術館のホワイトスペースに飾られた絵画よりも、野外に無造作に置かれた立体作品や環境展示に惹かれていたのも、すべては今の暮らしにつながっていたのでしょう。

ほんとうに、人間を豊かにするものは、人の手でむりやり生み出されたものではないのです。
自分ひとりで変えられることは限られている。この世界は、小さな命の営みの集合体でつくられ、動かされている。教科書やら契約文書やらとずっと睨めっこするだけではない、文字で書かれていないような真理が、大自然のなかにはおのずと含まれ、生きることは、おのれ以外をも活かすこと、活かされることだと教えてくれたのです。

(2022/04/20)







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