陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

春迎えの木

2009-04-18 | 自然・暮らし・天候・行事


この季節、春を感じるものはと問われれば、おおよその人はおそらく桜と答えるのではあるまいか。
しかし、私にとって春を想う木とは梅のことだ。それはまだしも冬の寒さがとどこおる時期に、春の前触れを知らせる、希望の木である。桜の木は私にとっては、春の終わりを意味する。なぜなら、それが散ったとき、季節はまぶしい光と猛々しい翠のあふれる夏を導いていようから。
今年は二月の初旬に、近所の庭先の梅の木が花開きはじめていた。この地に暮らして三年目、春の先駆けをすっかりその梅の花に頼るようになった。

今年はいつになく暖かい二月であったようで。ある地域では常夏の気温を記録したのだとか。去年の日記をさぐってみれば、ちょうどその時分、急激な寒波が街を襲い、一夜にして雪景色に変えたことを思い出す。(拙稿「行き国の雪ひびき」参照)
今年はその雪ひびきが聞かれずじまいで、ひと安心でもあり、かつ寂しくもあり。しかし、そんな悠長な雪の眺めを楽しんでいられるのも、雪に暮らしをわずらわされない者の弁。朝な夕な通いの足をはばまれるひとにとっては、どうでもいい風情といえよう。

夜を徹して店が開かれ、車の通行もめだって多いこの界隈では、街の熱がこもっていて、なおさら早い花開きをうながしたものか。
ちょうど年度替わりのその頃は、一年のうち、私にとってもこころ穏やかな時節だ。

華やかさ、荘厳さでは桜にいささか劣るけれど、私は梅の木が大好きだ。
等身大のすがた、花が落ちてもそれとわかる特徴的な枝振り。唐風の建築を見るような質実剛健さが漂っていて、とても堂々としている。松の木肌のような厳しさと、ちいさな薔薇のような高貴さを併せ持った木といえる。そして食においても、我々の身近くにある生命である。

冬のあいだ見つめつづけていた裸木が、ほっこり蕾みをつけ、花を咲かせているのに出会うのは、とても感慨深いもの。
この木の花、この花の兄が開いているのを見ると、兄に導かれた弟のように、なにかをしなきゃと思いたくもなる。

記憶にいろ濃い梅の観賞といえば、大学一年生の時。上阪したばかりで関西の名所を知らない私を、同郷の友人が案内してくれた。そのひとつに訪れたのは、北野天満宮。紅白にわけられた梅林は、とてもみごとで。
桜の花見のように、騒々しい物見遊山気分がなく、神聖な気分がするのは、おそらく学問の神様が愛でた花なのだからだろう。

「春な忘れそ」の木は、ことしも怠らずに、百花の先陣をきって、待ちかねた春を告げてくれる。その木は主がいなくても咲くのだろうけれど、なんとなれば、見る者がいればこその美しさではなかろうか。
こういう四季の変化をゆったり感じられる瞬間をだいじにできることは、私にとってのささやかな幸せだ。

三月に実家に帰った際に、母が言うには、いつのまにか、梅よりも先に桜が咲いていてしまって、春のさきがけを感じなかったのだという。当地で満開の梅に見送られてから、帰省のバスに乗った私は、ひとりほくそ笑んでいた。母は私がデジカメで撮影した梅の木で、しぶしぶ今年の梅見をすませてしまったのだった。

今年もあの梅の木を眺められたことを、ありがたく思うばかり。春を迎えると、私もひとつ年を重ねる。その梅の開花に、また新しい一年がはじまることを祝うのである。


【画像出典】
壁紙村さまの「わが家の梅ノ木/3月」をお借りいたしました。

【F.O.B COOP】「私の見つけた春」大募集!《セネガル・マット》プレゼント ←参加中



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画「名探偵コナン 戦慄の... | TOP | 世界フィギュアスケート国別... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 自然・暮らし・天候・行事