陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

行き国の雪ひびき

2008-02-10 | 教育・資格・学問・子ども


夜の静寂をおびやかすような、盛大な音がしました。音には正体を伏せてひとを恐れさせるいやらしい効果があります。人っ子ひとりは落ちたような重さを立てていました。いっしゅん、まさか?!と思い、恐るおそる外に出てみれば。地べたに散っていたのは、濁った雪のかたまりでした。

なおも重みに耐えかねた松の枝が、果敢にうらがえってどう猛な雪を弾いていました。夜の外やみがしっとりときずいていた沈黙の山が、ことごとくひっくりかえります。散った雪は街の明かりをうけて、暗い路面をそこかしこに輝かせていました。落ちた雪はトタンをおぞましく叩いては、大仰に滑っていきます。バさり、ドサり。とその音がまた大騒ぎ。地を轟かすようないきおいで、雪は鳴りやみません。並みの雪なら、冬の光りをゆるめた太陽に透かされて朝まだきにさらさらと穏やかに崩れていくものを。あいにくと、夜半の冷たい雨が中途半端に雪を融かして氷りと変えてしまったようで、深夜に雪みぞれの跫音をもたらしたのです。
またひとつ、ガラスが割れるような音が、寡黙な夜をやぶって届きました。その音を聞くだけで、耳の奥まで突かれたように痛くなります。南国のあたたかな海の画像をながめてこころ和んでいたのに、なげられた冷たいつぶては、静けさを尊ぶ耳には、不快のきわみと聞こえました。

暖かい国の生まれ、雪といえば粉のように舞うというイメージしか覚えなかった私にとって、ひさかたぶりに雪の恐怖を感じた日でした。でも、その降雪がいつもの目に知られた世界を変えたのだということも、胸にとどめておきましょう。白銀におおわれた街は、見る人をして、遠近感をあいまいにして色あざやかさ奪われた水墨画を眺めるような、おごそかな気持ちにさせるのです。ツートーンに抽象化された景色は、音楽的な美しさと時に流れるはかなさをもっていました。純度の高い白には、疲れた世界のよごれをきわだたせるほどの、厳しい清らかさがあります。そこまで積もればいっそ清々しくもあるが、こんな雪はなかなかお目にかかれない。都会の雪の美しさは短い。生半可に降っては、温かくなって泥まじりになった残り雪は、年代ものの雑居ビルのひび割れをなぞってしまう雨とおなじように、どうかすると手入れの悪い家屋のみすぼらしさを強めてしまうのです。雪に世界の美しさをみてとれるのは、つくりおきの北国の写真だけなのでしょう。

この日、報じられるところでは、市内は十一年ぶりの積雪を見たのです。いわれてみれば、こちらに住んではじめての大がかりな積もり雪であったと。ここ数日、各地が雪の話題でもちきりです。温暖化がすすんだとはいえ、まだしもご当地の冬は雪の季節であることを忘れてはいないようです。

せっかくの三連休初日を、雪で足を閉ざされてしまった方もいるでしょう。銀輪にまたがってのお買い物も、さすがにこの日ばかりはひかえておりました。以前の成人式の日記にも書きましたが、思い起こせば大学の二次試験当日。靴を一センチは埋めるほどの雪が降っており、転びそうになった私は、三文字の禁句を頭に浮かべておりました。その雪はけっかとして、祝い雪となってくれたわけです。進学すること、いやおおきくいえば、生家をはなれて暮らすことが、二十歳の私にとっては、長いトンネルを抜けた先にある「行き国」であったと、言えるのでしょう。そして、もうそこで降りて、どこにも行けない場所でもありました。


「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」

この有名な書き出しではじまる川端康成筆の『雪国』は、その終わりをなんとも判じがたい結びでむかえています。主人公の無頼漢、島村と懇意になった芸者の駒子。男は妻子持ちで、冬場の逗留にしか逢えず、しかも亡き師匠の娘、葉子にも気を移しはじめている。ある夜、繭倉兼芝居小屋が火事になります。炎に包まれた二階から落とされた葉子を、駒子が抱きとめたところで、話はあっけなく閉じてしまいます。
なぜ好いた男のほうが足を動かさなかったのかといぶかしむのだけれども。男はあくまでその村の椿事には預からぬ旅客の身の上、さらにいえば、芸者生活で身を立てることに徒労を感じさせる駒子に別離の予感をいだきはじめていた。いくたの少女小説も手がけた文豪の名作が、甘美なリリシズムで締められていることに注目すべきかもしれない。この最後があるがゆえに、いささかお性根のはっきりしない都会と雪国との行人をめぐって、不愉快な経路をたどったふたりの女の恋の行く末が、和解をむかえる。そうだと考えられはしないか。

高所から落下する人体は、何倍にも重力を増して降りてきます。
もし、自分ならば。それをうけとめる深い度量も、つよい両の腕もないでしょう。急に降って湧いたような軽い奇蹟ならばありがたがるくせに。
現実にはおこりえないであろう、踊り子ふぜいの女が人っ子ひとり抱えるというこの結末が訴えていることは、おそらくは、苦難の甘受、あるいは憎むべきものへの許容なのかもしれません。旦那を亡くして島村に寄りかかろうとする駒子も、母と兄という身よりふたりを失ってしまった葉子も、家庭のある無為徒食の男にかたむけるその恋心たるや、えてして成就されるべきものではないのです。なぜ不自然な火事がおこったのか、葉子が身を投げ出したのか。それについては筆を詳しくいれておらず。
駒子は,自身の苦しみの合わせ鏡として、落ちてくる女の悲哀を抱きとめたといえましょうか。それは物語冒頭の印象深い汽車のシーンが、象徴的に作中なんどもよみがえるところから読み解かれるのです。夕闇に流れる景色を背景として窓ガラスに映じられた葉子の顔とかさねられた、野山のともし火。またあるいは、朝雪に火照らされて燃える頬いろをみせた起き抜けの駒子の顔でもありました。クライマックスの炎に照らされたふたりの女の顔いろは、作品のなかに予見的にすりこまれているのです。男の感覚が逐次に切り取っていく美しい雪の描写、あるいは束ねられた心情が、それをみごとに覆っていきます。ふたりの女性の情念を冷やしつくそうとするように。
落ちた葉子の生死については伏され、ただ駒子が彼女をして気ちがいだと叫びながら、見守る群衆をおしのけてすすみ、術なき見物人のひとりになった島村には天の河が流れこんできた──この幻想的なラストが暗示するのは、おそらくは、織姫と彦星のごとき、愛を隔て生活を分かつ星空の住人に男が成り果てたということなのでしょう。汽車内の夕景色の鏡に覗かれた女の顔を非現実と感じたときに戻って、もはや男の今後にとって、哀れな娘たちは遠い存在にされてしまったのです。けっして結ばれない片想いどうしのふたりは、主人公が去った後、身をよせ合って暮らすのかしらと考えてみたくなります。川端は、結びにあけすけな筆入れをおさえ、夢想の余地を残すことで、たくみに陰惨な終わり方を避けています。それはまた、冷たさを甘い光りの輝きでやわらげてみせる雪のはたらきにも似て。

いたずらな夜の雪の響きは、この稿を終える昼ごろには、おさまったようです。存在をいつわる冬の音からくりに、ふと思いたってひさしぶりに名作文学を開いてみようと思った次第です。暦のとなえる春などおかまいなし、予断なく身をいじる冬の寒さには、てのひらとくちびるから温める珈琲カップ片手に美しい読書でのりきりたいものですね。

(〇八年二月十日 記)

【画像出典】
壁紙村様の「雪に佇むアオサギ」をお借りしました。



【ネタのタネ】



【追記】
この記事は「ネタのタネ」レース二月第一週お題に応募し、優秀賞にえらばれました。こちらを参照。事務局の皆さま、ありがとうございました。

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