陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

緑にふれると心はやわらぐ

2023-10-22 | 自然・暮らし・天候・行事

自分のHNにかこつけていうのではないが、ここ数年のブログ日記は植生に関する日記が多くなった。空き家の管理をしている以上、庭木や雑草の管理が気になるのである。

もともと植物を育てるのは苦手で土に触るのも嫌い。
そんな横着な私が自然に愛着を寄せるようになったのは、振ってわいたような空き家通いのこの習慣からなのだ。そういえば、昔から、人物画などよりも風景画の方が好きで。ギャラリーにあるオブジェよりも、光と風をはらむ野外展示のモニュメントのほうが好みだった私には、その素地があったのかもしれない。

この日曜朝に行ったのは、近距離圏にある職場の外回りの草刈りだった。
もちろん社命ではなく、自主的な。以前は就業時間中に行っていたのだが、インボイス制度やら電帳法準備やらもあって時間をとるのが難しい。くわえて、社内で目立ってしまうと、他の従業員にもこのボランティア作業が義務化されるのではないかと恐れて牽制される雰囲気もあったからだ。手伝おうかと言ってくれる人もいるが、好きでやっているのでとお断りしている。

社内外の掃除は総務としての安全衛生管理業務の一環だと思っている。
事務はいわゆる雑務、何でも屋である。会社が上手く回るためなら、どんな汚れ仕事も請け負う。デスクのうえだけできれいな書類を作成して、お金の計算だけしているわけではない。

外回りだけならば半時間もかからなかった。
服についた引っ付き虫ような種の後始末がめんどうなだけで。

日曜朝、本来この時間は公園でラジオ体操なんぞに参加したり、遠くのスポーツ公園にウオーキングしたりしていた。人の手の入った公園はいるだけで気持ちがいい。けれども、そうした美しい光景にするための、陰ながらの努力をしていくれている人がいるのだ。多くは近所のボランティアだったり、自治体が雇った清掃員だったりするのだろう。

通勤中でも、お店が明るく賑わっているのに、その手前の歩道脇やら街路樹の下には、大ぶりの小枝のようにもなった雑草がはびこっているのが目立つようになってきた。
かつて、この街はさほど、こうした雑多な緑に浸食されてはいなかった。だが、ぼちぼちと古い倉庫やら空き家やらに蔦がからみはじめたりしはじめている。閉店した店舗や病院はいわずもがな、ひとが住んでいるはずの家屋の前でももはや刈り取りがされていない。

歩道に設置された花壇が個人の畑にされて好き勝手に植えられていたりすることは、かつてあった。
だが、まだそれは管理者がいいるからいいほうで。もうそれも放棄されて、丈長の雑草が野性味あふれて伸びているのだ。田舎の人手不足を象徴している。

草刈りをおこなったのは、善行をおこなって誰かに褒められたかったからではない。
ただ、なんとなしに、私はここ最近気分がふさいでいて。緑を刈ることでなにかを吹き飛ばしたかったのだろう。病巣を摘み取るかのように。

ネットを眺めてもラジオテレビを視聴しても、滅入るようなニュースしかやってこない。
書店にふらりと入っても、人生の残り時間がふとよぎって、何も買わずに出てきてしまう。そんな無駄な時間を過ごすのならば、多少なりとも誰かに役立つことをすればいいのではないかと思い立ったからだった。その道を歩く人が気持ちがいいと思えるような。

草刈りはやっかいな作業で、やりすぎると足腰を傷めたり、手を傷つけたりもする。
除草剤の影響も懸念される。農業に携わる人はとんでもなく大変なことをしていただいているのだと感謝したくもなる。けっしてやってもらってあたりまえだとは思わない。

ウェブ検索すると、緑や青みがかった色にふれるのは、自律神経の働きによく、内臓を安定させる効果があると。疲れていると草刈りをしたくなるのは、自分の身体が癒しを求めているからで、当然のふるまいだったのだ。

からだがまだ元気に動けるあいだは、自身の空き家をふくめ、こうした作業を行いたいと思ったのだった。ブログ上に毒を吐く日記を書き連ねるよりは、よほど健全で有意義な時間ではないだろうか。


(2023/10/22)















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