陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

アングルの革新性

2009-04-29 | 芸術・文化・科学・歴史


新古典主義、いわばアカデミズムの巨匠として美術史が記述するジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(Jean Auguste Dominique Ingres, 1780- 1867年)が、じつは革新的な画家だった?

こんな驚くべき(?)テーマを放送したのは、四月二十六日の「日曜美術館」だった。この番組、昨年度までの「新・日曜美術館」を改題し、司会者も刷新したおなじみ日曜朝九時の美術番組だが、なんとなく去年までとは趣きが違う。
まず司会者は姜尚中(カン サンジュン)と中條誠子アナウンサー。姜尚中はポストコロニアリスムを代表する政治学者で東大教授だが、美術の専門家というわけではない。おそらく彼の口あたりのよさが評判で顔役に据えたのだろうが、私は前の黒沢 保裕NHKアナウンサーの語りを気に入っていたので、いささか残念。
しかも以前なら高階秀爾ぐらいの大物評論家を呼んでいたはずなのだが、今回からはどちらかというと作家を招聘し、彼らの独特の観点から語らせている。敷居を低くしたといえば聞こえはいいが、素人だましのご高説と思えなくもない。とくに第一回のゲストが、村上隆だったのは。もともと日本画の筆をとっていたので曾我蕭白を語ってもよかろうが、もっと専門的に研究している学者でもよかったのではないだろうか。

ともあれ、本日のテーマのアングルに戻る。
くり返すが、アングルといえばダヴィッドの後をうけ、新古典主義の頂点をなしたフランスの画家であり、アカデミーの院長もつとめた、画壇の権威でもあった。わずか九歳にして完成されていた巧みな描写力を思うさまあやつり、デッサンの名手という称号をほしいままにしてきたアングル。デッサンこそが絵画の基本にして最大である、という彼の考えは、のちに高等美術教育における素描の重要視を用意したことは疑いえない。
すくなくとも、私にはコッチコチのアカデミズム保持者という印象しかなかった。
新古典主義が、十九世紀前半から勃興したドラクロワらの個人の内面感情をおしだしたロマン主義とはげしく対立したことは有名だ。ロマン主義とは、まさに近代であり、革新であり、前衛の揺籃である。その対にあたる保守的なアカデミズムの牙城にすむ老大家が、革新性だって?

番組は三枚の絵をもとに、その仮説を検証する。
いわく、アングルは裸婦を描くにあたってはかなり実験的であったという。

最初の一枚は、『グランドオダリスク』(1814年)
(記事トップの掲載画像)

気品ある面ざし、内側から輝くような白い肌。しなやかさな美しさに満ちている。ところが、よくよく見れば、背中がふつうよりも長い、
今でこそ彼の代表作と賞賛されもするが、発表当時はデッサンの名手も形なしと、批評家の非難をあびた問題作だった。

当時のフランスの絵画教育は、ロココを否定し古典主義に傾倒しつつあった。子どもの頃からいかんなく素描の才を発揮したアングルの若き日の作品は、かなり堅苦しい幾何学的な精緻さがある。
古代ローマ・ギリシアを範としながら、解剖学的にも正確な人体表現のたっぷり学んだはずのアングルは、イタリアに留学。そこで、ルネッサンス期と運命の出会いを果たし、圧倒されてしまう。それは彼がうけた教育の半分をひっくり返してしまうものだった。
ボッティチェリの柔らかさ、優美な女性美のラファエロ。これらに魅了され、研究しつくしたとき、画家の裸婦画には、四角張った硬い輪郭が消えていた。彼はなによりも、画面に安定感をもたらすことを重視した。丸みを帯びた線で円弧を利用して、安定感をもたらしたのだ。

『グランドオダリスク』は。彼の理想とする円弧による形態美を追求した実験作だった。
まず彼は写実的にデッサンしたに違いない。そのとき、右腕は曲げたままで描き、横臥したからだにも細かな起伏はあったはずだ。しかし、画面に円弧の流れをつくり、肉体をデフォルメした。結果、輪郭に余計な線をおかなれずに単純化され、曲線と曲線がたがいにひびきあっている。つまり、これは還元主義的な絵画なのである。


さて、第二作は『泉』(1856)



私が大好きな一枚でもある。じつは、この絵はがきをアングル作とは気づかずに、飾っていたこともあるくらい。
これが、なんとアングルが敵対したドラクロワのロマン主義や、写実主義のクールベの得意とした、なまなましい女性の肉体の皺、エロティシズムをかもしだす手法への接近をこころみた野心作だという。
「泉」の女は清らかな聖女のように思われるが、その実、欲望に目覚めた若い女性を描いたと、したたかに番組は主張する。
遠目に見れば純白無垢な女性も、近くでみれば顔はほんのりと赤みをさし、軽く身をよじるポーズはいささか、扇情的。
官能の追求に走ろうとする時代の要請に、つねに革新家たらんとしたアングルが、この一作でこたえようとした。
なお、この説には、ゲストの篠山紀信の「エロティックでないものは芸術ではない」という主張が重ねられ、とちゅう、彼のヌード写真のお披露目会になっていた。
しかし、それは観るものの美学、ありていにいえば男性の野卑た視線を女性のからだを鏡として反映しているから、ではなかろうか。
この一考は、かなり強引といおうか、主観的な考察に左右されるので意見がわかれるだろう。
ただし、アングルにしてはめずらしい、うねるような女性の大胆な動きをみせた『奴隷のいるオダリスク』(1839)は、ロマン派的な情感におもねった一品といえるかもしれない。


さて、第三番目は『パフォスのヴィーナス』(1853)



画家が晩年近くまで手元においておいた実験作だ。
この一枚はもともとさる貴婦人の肖像として描いたものを、裸婦のヴィーナスとして描きなおしたもの。よくみれば、背中と胸の肉がずれていることがおわかりいただけるだろう。背中はほぼ真横から、そして胸は二つの乳房がよくみえる正面からと、それぞれの部位が美しくみえる視点からとらえて結合したのだ。
このからくりに気づいたのは、あの天才ピカソで、彼の革新的な手法の鍵となった。すなわち、複数の視点でものをとらえるキュビズムこそは、古典主義者のアングルがいなければ誕生しなかったのである。

このように考えてみれば、いっけん、美術史上、革命的な金字塔をうちたてた天才というものは、じつはおおよそにして過去を知り、歴史を学び、基礎を身につけた上で、それに飽き足らずに絶えることなく冒険をこころみた、といえるのではないだろうか。


もちろん、これは革新がつねに伝統あってゆえに生まれるからで、伝統とはしばしば古さびた革新であったという事実にほかならない。
たとえばいま、抽象絵画を描いていることが半世紀ちかくも遅れているのとおなじように。


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