陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「偶像の下描き」(八)

2010-12-30 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


騒動が落ち着くと、私たちは肩で息をしていた。
ふわふわとした、なまあたたかい空気が舞う。興奮の血潮とあがる吐息で、私の視界が曇っていた。眼鏡を外し、服の袖先を引っ張りあげて拭う。鼻当てを顔の中心に戻した時には、少女は目の前からすでに消えていた。詳しくは、見える範囲から動いていた。

傷ついた小鳥を胸に抱くように雑誌をかかえて、少女はばらばらになった頁をせっせと掻き集めているではないか。
さいわいなことに風はやんでいて、迷子になるほど駄作の切れ切れは遠くまで連れ去られなかったらしい。空を見上げると、鉛いろのどんよりと重い雲がいつのまにか増えていた。

少女が最後の一枚をやっと拾い上げ、その成果を楽しむかのように満足げに微笑みを落としてみせた。
彼女は、自分がその拾い物に熱中して、ふだんはあまり往来の少ない道路のど真ん中にまで誘き出されしまったことに気づいてはいなかった。耳を聾するほどけたたましいクラクションが鳴り響いたまま、その少女めがけて突っ込もうとしていた。

「危な…!」

声をかけて注意を引かせようとして、私はその言葉を呑み込んだ。
彼女は私にも、そして向かってくる車の音にも気づいてはいない。このまま、放っておいたらどうなるのだろう。創作の悪魔が私に囁きかける。

急ブレーキをかけて、ハンドルを大きく切った自動車が街路樹に突っ込み、運転手が血まみれの頭をガラスに倒れているか。それとも、まにあわずに、少女のからだの一部が吹っ飛んで、通行人にぶちあたるか。はたまた、少女のからだをすり抜けて、なんらの異変もなく自動車が通過してしまうのか。少女の真下のマンホールが開いて、間一髪、落ちこんでしまったのか。それとも、少女の背中に翼が生えて、ふわりと上空に逃げてしまうのか。

こんな場合、どんな解決をとって物語にしあげただろうか。
私が心底望んでいたのは、この少女のような能天気な女の子が熱愛する彼氏との別れ際に、ライバルの女の子に突き飛ばされて、車輪の下敷きになるというものだった。このプランはもちろん、編集の意向によって現実化したためしがない。でも、いま、ここに、そのシーンの絶好の素材となる現場に出くわしたのだ。

だが、漫画家である前にひとりの人間として私が行ったその行動は、ごくごく、ありきたりなものだった。
この人生ではじめて猛然としたダッシュをかけたのではないかと思うくらい、私は思いきり、道路に走り込んだ。瞬時に駆け寄って、道路脇の茂みに飛び込むようなかっこうで連れ込まなければ、いまごろ道路にはべっとりとした赤い飛散が残っていたことだろう。私があれほど、描きたいと思っていた陰惨きわまりない状景はここに日の目を見ることはなかった。交通事故の現場、しかも人が跳ねられる瞬間に居合わせるなんて、めったにないことだった。しかも、それこそ、呆然と見殺しにしても罪に問われないものだったのに。わずかな良心が勝ったがために、私はそのチャンスをみすみす棒に振ったのだ。

茂みに転がり込んだ私は、少女の腰を抱いたまま、横倒しになっていた。
車はすんでのところで私たちをかわし、何ごともなかったかのように、走り去っていた。
私の手はふるえていた。ペンと箸しか握ったことのないようなこの手が、ひとを助けてしまえるなんて。ところが、少女ときたら、自分が間一髪で救われたことも意に介さずして、こんなことをのたまったのである。

「良かった…これで全部。ちょっと見映えよくないけど、テープで貼れば千歌音ちゃんに見せられる」
「…そんなにその漫画、読みたいの?」

ちょっとは、助けてやった恩義を感じてくれてもいいのに。腰をさすりながら、恨めし気な視線を浴びせたが、少女は無邪気にほほえんでいるだけだった。



【目次】神無月の巫女二次創作小説「ミス・レイン・レイン」







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