陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

研究者になれなかったひとの活路

2019-04-24 | 仕事・雇用・会社・労働衛生

先日、とあるラジオ番組で、お笑い芸人で博士課程満期退学者であるサンキュータツオ氏が語っていたことから知りました。
今月、朝日新聞で、とある女性研究者の悲しい顛末が報じられました。2016年に40代でいのちを断ったN女史。2004年に東北大学で博士号取得、2009年ごろには近世仏教の研究で華々しい業績をあげ、日本学術振興会の特別研究員でも特に優れたSPDに選ばれます。その後もいわゆる任期付きのポスドク(博士研究員)や非常勤講師をつづけ、大学の専任教員に応募したもののなしのつぶて。経済的安定を求めて、知り合った男性と結婚したものの相手が精神障害だったことで破綻。将来に悲観しての自裁だったと。

このニュースはわりと話題を読んだらしく、ネットでもご本人を知る人の声やさまざまな意見があります。
自ら進んで院進学したのに、学歴に見合わない職が得られないと嘆くのは自業自得ではないか、という反論。専任教員の職(いわゆるアカデミックポスト)をものにできなかったのは能力が足りなかったから。努力の方向性が間違っていたから。学問の傾向が応募先の大学と合わなかったという不運。30歳過ぎて親に生計を頼って好きな研究でお金ももらえたのに贅沢だ、というたしなめ。親に頼れないから、今度は結婚に逃げようとして、これだから女は…というミソジニスト。

そのいっぽうで、1990年代以降大学院の重点化で大学院を増やし、修士、博士を量産したあげく、受け皿づくりができなかったのは政府の無策だ、教育行政の失策だ、という非難。若手研究者の独自研究を促すための支援策であったポスドク制度が、かえって博士号取得者を飼い殺しにしてしまったという指摘。非正規労働者の問題は、民間企業のみならず、官公庁や教育機関にまで及び、労働者の格差を生んでいます。

高学歴者の貧困問題というのは、経済雑誌のオンライン記事にも特集されるぐらい、もはや珍しいものではなく、日本のみならず先進国共通の事態です。
欧米ではたしかに博士号取得者に優遇があり、価値があるとされていますが、それだけ取得要件が厳しく、かつ大学教員になるにしても難度な資格試験があります。文系博士のみならず、いまや理系博士でも明日はあやうい状態です。

日本の場合、90年代後半からの大学院進学の窓口を広げ過ぎたのにくわえ、タレントめいた教授やメディアに顔を売る御用学者などが多く、「大物教授にゴマをすればいい」「ひたすら研究業績数を増やせばいい」などの流言がはやって、誰でもなれるような錯覚をすりこんでしまったのが原因でもあるでしょう。じっさい、研究者をめざすというのは、作家や漫画家になるとか、アーティストや芸能人になるのと変わらないぐらいリスクがある将来選択なのですが、下手に学歴がついてしまい、サンクコストも大きいだけに、引き返せなくなってしまうものなのです。周囲の期待もあるでしょうしね。

私は死体蹴りをする趣味はありませんので、この亡くなった方への個人的な反論は控えますが、しかし同情できるかといえばそうでもないです。国から交付される研究費は国民の血税ですから、個人の趣味に毛が生えたような研究に濫費されたら困りますし。限られた数年で結果を出せなかったのならば、その恩恵を次世代に返すべく、生きる手立てを考えるべきではないでしょうか。学会や研究雑誌などでなくとも、今では個人がネットでいくらでも情報発信できるわけですから、思想を一般化してわかりやすく伝えられたらよかったのかもしれません。

そもそも、実験施設や試薬などが必要な理系研究と違って、文系の研究、とくに国内の文献中心の学問は在野でもできますから、研究の場は大学だけにこだわる必要はありません。
最近では利用を一般市民へも解放している大学図書館もありますし、そもそも一次資料として古文書などを買い集めるにしても、公的な研究費で購入された資料は私物にしていいわけではないでしょう。

私はもともと修士どまりで研究を終えたので、こうしたアカポス狙いの博士号の悲哀には寄り添えないものがあります。
大学での勤務経験はあるにはあるのですが事務職員(非正規)でしたし、派遣や有期雇用労働者として働いた経験があれば、大学の非常勤職を長く続けることの怖さぐらいわかるはずです。就職氷河期に企業への就職を試みたひとは皆知っている事実ですよね。

博士号取得者だからといって、40歳いや下手したら50歳過ぎてまで自立できず、やれ国だの、大学だの、指導教官だの、誰かを悪ものにして、自分が好きなことをしたいから面倒をみてくれ、育英会の奨学金だって踏み倒していい、とわめくのは、乞食のようにあさましく、知性がある者のする所業とは思えません。いい大学を出ていたら、高学歴ならば、無条件であなたは世の中から敬われるべきなのでしょうか。エリートの傲慢というべきではないでしょうか。

この亡くなった女性研究者は無心をすることもなく黙って耐えて研究をつづけたあげく、報われなくて、ついにこころを病んでしまったのでしょう。
私も自分の研究論文が数本掲載された大学紀要を今でも大事にもっていますが、世間一般には無駄だと思われるものであっても、研究者用のデータベースに自分の名(旧姓)が残っているのはこころの支えになっています。しかし、それはあくまで過去のことでもあるのです。甲子園球児が30歳過ぎても優勝旗をひけらかしては笑われてしまうのと同じで。私の学歴も、いまの立場とはなんら結びついてはいません。

将来不安や多忙な研究生活で精神病になってしまったり、教官や同期と軋轢を抱えたり、他人の業績を労せず奪おうとするひとまでいたり。大学は闇を抱える場所であるいっぽうで、学生という身分さええれば、フルタイムの会社員の労働の義務から解放され、体裁もいい場所でもあるのです。大学というのは、それだけ魔窟であるのです。

この女性研究者の死の背景にあったのは、けっして晩年の私生活上の不遇だけではないでしょう。それまでの研究人生で遭遇してきた感情の澱みにも、おしつぶされてしまったとしか思えません。

文系の研究、とくに人文科学は、よりよく生きるため、心豊かに生きるために、ふかくものごとを掘り下げるための思考力や判断力を養うためのものであって、昨今、大学教育の分野では規模縮小気味ではありますが、けっしてないがしろにしていいものではありません。しかし、ほんらい人間関係の潤滑油たるべき哲学や思想、芸術文化などの教養(リベラルアーツ)が、ひとの競争心の道具にされ、それを教える側が倨傲に満ちて知識でひとをなぶり倒すにあたっては、もはや学問に生きる意味を教える力などはなく、交付金の削減だの、若者人口の減少だのの実情をさっぴいても、もはや日本の大学に魅力がなくなっているのは明々白々なのでしょう。人格のゆがんだ学者に教えを乞うぐらいならば、古典でも読んで学んだ方がマシというものです。

そして、研究者になれはしなかったのだけども、それなりに活路をひらいたひとは、学問に生きる意味を教える力などはないという事実に抵抗しつづけた方なのでしょう。そういう人は、華々しい肩書きこそなかったとしても、きっと誰かの人生を勇気づけるメンターになっていたのではないでしょうか。私はこの生真面目な女性研究者が今後そうなるべき可能性をみずから閉ざしてしまったことを、なによりも痛ましいと思う限りなのです。



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