「もうすこし早く、六月ぐらいの夜に来てたら、蛍の大群だって拝めたかもしれないな」
真琴の感心しきった独り言は続いていたが、姫子にはなにひとつ耳に通らなかった。
姫子は高倍率のズームよりも、単焦点を愛用し、みずから対象に迫っていくことを好んだ。
カメラは日ごろ、他人と目を合わせられない恥ずかしがり屋の姫子が、積極的になれる魔法の瞳だったのだ。誰を、どこで、どのように、眺めているか、そしてそれを半永久的に保存したいという欲動を悟られないためにうってつけの道具だった。
レンズを覗くと、そこから見えていないものには存在していないもおなじだった。
姫子の両足のあいだを、その脇をひょい、ひょい、とすり抜けていく魚影は、今日このとき握りしめた川の水と同じ水を明日になれば掴むことはできないように、この場所になんらの未練ももたずにきれいさっぱりと流れ去っていくものだった。時は海のように豊富だった。汲めども尽きずにいくらでもそこに広がっていた。だが、大海のなかの一滴は、その一滴かぎりでしかない。懐旧心もしくは後悔という後ろ向きな飛び石を放り込まなければ、その一滴は目の前に躍りあがってこないだろう。
水に潜み、水に添って呼吸し、気まぐれに水から頭をもたげ、そして自分から離れ去ろうとしていくものを追いかけるのに、姫子は夢中なのだった。永遠にそこにとどめられはしないものを結晶化させるために、季節の移ろうバルビゾンの森に分け入って、梢から洩れるまだらになった光りを浴びながら、風が袖先をすり抜けていくのを感じながら、画布にその見えるがままを再現しようと苦心した近代画家たちのように、姫子はその一瞬一瞬の儚さをすばやく捉えては、その光彩の微細な変化をきっちりと胸に刻み込み、しっかりと自分の懐にある記憶の函(はこ)へと囲い込んでいく。理解をするためには、最小限の要素に分解しつくしていく必要がある。姫子はじっくりとカメラを覗きこんで一枚たりとも無駄にしないように、その時を待つ。
一秒でもレンズから目を離すのが惜しまれる。
瞬きをしているコンマ数秒のあいだに失われた時間は、スリットというフィルムの黒い切れ目へ潜り込んでしまうのだ。その見逃した一瞬は、いくら感光液に浸してうまく現像してみせても、取り戻すことができない。ファインダーを覗いた一瞬の煌めきこそが正念場なのだ。呼吸をするように、脈を打つように、シャッターの音が姫子の生きているリズムと近くなる。
一匹の魚が、身をくねらしながらすり寄ってきた。
遠くからは黒みのある銀にみえたその魚は、近づいてみれば乳白色になり、そこから色がすう、と融けだして透けていた。しゃぼん玉のように輪郭だけが、ゆらゆらと泳いでいた。そのうち、目の下のえらがほんのりと朱を帯びてきて、まるで紅く頬を染めた乙女のようにみえた。水に甘えて、水に戯れている。その姿たるや、無性に可愛らしく思えてしかたがない。
姫子の足もとには、その魚が好物とする苔むした岩があった。
石にこびりついた藻をこそげ落としながら食む魚は、姫子の足まで試すようにくすぐっている。なんという愛らしい姿だろう。