陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「夜の滸(ほとり)」(九)

2009-09-15 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


魚は逃げない。姫子だって逃げない。
レンズを通して、姫子は被写体と、それが潜む光りなす世界と、静かに対話していく。姫子は写し出すべき対象に念ずるように呼びかける。

恐がらないで、こわがらないで。
ほんの二、三秒だけでいいの。
あなたの時間をわたしにちょうだい。
あなたの姿をわたしに預けて。

つばの広い麦わら帽子がずれて、首筋に紐がひっかかったまま後ろに垂れ下がっていても、姫子は気にしなかった。
シャッターが切られ、水面にまばゆい光りの反射が飛び散っても、瞬きすることすらしない魚はそこに居続けた。フラッシュが焚かれた瞬間に、魚の目の裏側に焔が点じたかのように、ぱぁ、と紅くなった。姫子は仰天してカメラを降ろし、肉眼でつぶさに魚の目を確かめたが、すでにそれは元の黒目に戻っていた。きっと、錯覚だったのだろう。

瞳を閉じることがない魚には、人間のような視覚の途切れ目がないのだ。魚は休むことなく、世界のすべてを見つづけていく。だからこそ、あの死角というものがまったくない、ぎょろりとした強い光沢の濡れた瞳に惹かれてしまうのか。

「変わった魚がいるもんだな。ひょっとしたら、新種だったりして。だとしたら、あたしら世紀の大発見者だぞ」

しめしめとしたり顔で真琴が言葉を投げたとたんに、魚はいきなり底砂に頭をつっこんだ。周囲に煙幕をまき散らしたまま、まんまと軽やかに逃げおおせてしまった。

「ふうむ。いまの魚はなかなか賢いな。人を選んで近づいてんだ、きっと」

雲隠れするお手並みも鮮やかで、逃げ場所も決まりきっている。すぐに逃げ切れる自信があるからこそ、動きの鈍そうな姫子には平気でこころを許したのだ、というのが真琴の見立て。
だが、姫子はそうは思わない。きっと、こちらの必死な想いが通じたのだろう、と信じて疑わないのだった。

真琴は姫子から数メートルと離れない位置につけていた。
姫子の撮影を固唾を呑んで見守っていたのだろう。レンズから面を上げた隙を見計らって声をかけたのだが、姫子は素っ気ない。カメラを抱えたまま、そそくさと移動してしまった。

姫子は被写体それ自体にではなく、函のなかにしまいこんだ映像にしか興味がないのだ。彼女の視覚の収集癖には、この川の流れのように途切れることがなかった。




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