「こんなに生き物があふれてんのに、汚れてない。川ってふしぎなもんだなぁ」
真琴はふと沸き起こった感傷を洗い流すかのように、大仰に感慨深げなふうで、ナチュラリストを気どってみた。
だが、ほんとうに彼女が関心を持っているのは、多種多様な生き物がひしめきあっている流れのうちで、いま、このときだけ気まぐれに水辺の訪問者となった我が身のことだけだった。川の不思議を唱える真琴の川に寄せる憧憬は、自分を浸す関係性のうえにこそ成り立っていたのだった。
手を浸せば指先から、べとつきのない薄い蜂蜜のような雫が、ぱらぱらと落ちていく。
真琴は鳥が羽ばたく前のように両腕を伸ばして、片足ずつ交互に浸けながら、ゆっくりと歩いてみた。足の指先から雫が垂れ落ちていた。水滴が落ちる暇も与えないほど、水面を滑るように渡ることができれば、それは地上で理想のフォームになるのではないか。水に浸した際の足首に漂うこのふわりと軽い、抵抗感のない感覚が、トラックの上でもあれば、短距離走のエース・早乙女真琴はもはや恐いものなしだ。
肌の色を吸いこみながら垂れていく雫を眺めていると、自分の指先がほろりと融けだして、そろそろと流れていってしまうのではないか、やがてそれに引きずられて自分というものがすべてそっくり水のなかへ取り込まれていくのではないか、という感覚に襲われてしまう。とどめなく流れていくものに対してとどまっている自分というものに、気後れを感じさせるのだ。
だが、敢えてその恐怖を圧して、真琴は水に近づこうとする。
水に浸すと、自分のからだの芯の強さがかえって思い知らされる。うかうかすると押し流されてしまう。骨のなかから鍛えよう。こころを重たくしすぎて沈みこんだりしないように、己は虚しくして、ただ前に進むことだけ考えよう。でも、ただ走り込むだけじゃだめだ。もっと体格を絞り込んで、軽くなるんだ。学校のあのプールでも特訓しなきゃな。ラストスパートのコンマ数秒の差が勝負の分かれ目だ。瞬発力の出せる筋肉の付けかたと走る際の骨盤の角度を研究して、無駄なからだの動きを改善しよう。走者・早乙女真琴は川の流れに足を浸し、そんなことばかりをひたすら頭に巡らせていた。
どこから流れてきたのかわからないU字型にたわんだ小枝が、その足首に絡みついた。
足首にそれを引っかけたまま、邪魔くさそうに真琴は大きく蹴りあげた。それでもそいつは動かなかった。真琴が外したそれを数字の9のようなかたちで丸めて括りあげ、ブーメランよろしく、勢いつけて空へと放り投げた。小枝は、ひゅるんと一回転するうちにしなってへの字ぐらいに広がると数メートル先への水中に没し、さらにその向こうで水がざわめいて魚が逃げていった。
人類が水のなかへ投げ落としたものが、平べったい小石から人工衛星へと飛躍したとしても、落ちるという結果には変わりがない。
地球の中心へ中心へとなびいていこうとする重力の恩寵によって、物体すべての水の底へ帰りたがる習性は変わらない。潤いある場所へ還元してやったことが誇らしいかのように、真琴は親指で鼻の頭をこすって、笑いこぼす。真琴はさながら弓を放り投げた侍であったかのように、意気揚々と握りこめた片手を挙げていた。
大げさな身振りで喜びいっぱいをからだで表現していた真琴のすがたは、姫子の視界からは抜け落ちていた。