陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「さくらんぼキッスは尊い」(二)

2020-07-25 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


***

――とある土曜日の午後十時。
小気味のいいチャイムの音に、媛子は思わずテレビの音を消した。
そろり、そろりとドアに近づいて、インターホンのモニタ画面から覗く。媛子が用心したのには訳がある。その時まさに、極秘のレポートをしたためていたからだった。それは、はたして学校の課題だったのか…。

画面から見えたのは、整った顔立ちの――その黒い瞳がこちらを見据えている。
美しい訪問者は落ち着かなげに髪を触り、胸に手をあてて息を整えていた。夜遅いけれど、よかったのかしら…──そんな思惑が顔に滲んでいる。

来た! 来た! 媛子は慌ててレポートを片づけ、そそくさと鏡に映った自分をたしかめ、ルームウエアからよそ行き用に秒速で着替え、髪も梳かしなおし、アロマを焚き、香水をひと振りして、薄めのリップを唇にひいた。うん、グロスがなめらかに光り、艶々していい感じ。顔をつくるのはお手のものだった。

インターホン越しのやりとりなんて、ふたりの仲では省略。
気持ちよく電子キーのドアを開けると、心なしか緊張した面持ちでその人は待っていた。モニターホンで眺めるよりも、写真に撮られるよりも、なおそのひとはやはり美しい。ためらわずに玄関先へと招き入れた。

「こんな夜にお邪魔だったかしら?」
「ううん、嬉しいよ。それよりどうしたの、千華音ちゃん?」
「ええ、ちょっとね…。とくに用事というほどのことではないのだけれど…」
「あっ、もしかして。昨日の忘れもの?」
「いいえ」

ふうん、と頬に人さし指をあてて、思案顔の媛子。
ブラウスにまだ夏物の薄めカーディガンを肩掛けにしていて、よく似合う。あどけない顔に似合わず、すこし大人びても見える。媛子はいつも、こんなふうだったのかしら。

千華音は着の身着のまま、カラスのような黒づくめの制服だった。
訪問の口実すら用意していない。でも、逢いに来るのに理由が必要な距離でもあることが、千華音にはまだもどかしい。

「ご飯、食べてる?」
「それは、バイト先のまかないで済ませてきたの」
「そっか、お疲れ様。じゃあ、わたしの顔が見たくなったとか、なんてね」

媛子が照れたげにしなをつくって問いかけると、たちまち千華音は明後日の方向へと目を反らす。図星だったようだ。
瞳を伏せ気味にしていると、ひときわ長い睫毛の美しさが際立つ。頬が染まって薔薇みたい。
こくん、と頷いてしまったあたりがもう可愛い。言葉には出せないけれども、全身で媛子を求めていることに、千華音はもう逆らえなくなっているようだ。

はじめて出逢ったときのこのひとは、およそこんな感じではなかった。
全身から殺気立っていて、自分を襲った刺客の血のついた刀でそのまま胸を衝かれそうになった。でも、たったのあのひと言――「わたしを殺していいよ」で刃を収めてしまった。「わたしのいちばん大切な人になってください」で言葉に棘がなくなり、不思議なものを見るように瞬きをしてみせた。まるで、狂犬がぴたりとお座りしたみたいにもう噛みついてこなかった。それから、心臓を持っていかれたのは、どっちだったのだろう。

それ以来、わたしの命は千華音ちゃんに予約済みだ。
「わたしの大切なひとになってください」――そんなしおらしい言葉を、千華音ちゃんは律義に守ってくれているように見える。ときおり、焦って突き放されたり、怒気をこめて睨まれたりするけれど…。でも、そのあとに、申し訳ないような表情でとびきりやさしくしてくれる。叩いたり、暴力をふるったりするわけじゃない。そう、この人はめっぽう強いけれども、力を奮わない人には荒事をしない。それに、千華音ちゃんといれば、皇月家に与した腕っぷしのいい九頭蛇たちからもガードしてもらえるし、デート気分も味わえちゃうし、ほんっとにラッキー、ハッピー。こんな美人さんとお友達だなんて、もういいことづくめ。やっぱり、東京に逃げてきてよかったなあ。今年の運勢は大吉間違いなしだ。

媛子が千華音の前でみせる微笑みには、いくぶんかの生存戦略がほの見える。
そして、また、千華音が媛子の前でみせるためらいには、生きたい、生かしたいという望みさえ陽炎のようにうつろう。しかし、ふたりは、いまだ自分のほんとうに気づいてはいない。


【目次】姫神の巫女二次創作小説「さくらんぼキッスは尊い」




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