陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

芸術作品の資産価値はかなりおかしい

2017-11-16 | 芸術・文化・科学・歴史
文化の日が近かったのに、文化をぶっとばす記事です。
読む覚悟はよろしいですか?

原田マハさんの『アノニス』は、国際的な犯罪者集団に請われて、画家を夢見るディクレシアの青年が贋作を手掛けるアートサスペンス。この発想、漫画の『ギャラリーフェイク』に似ていますよね。

作品の価値なんてわからずとも、作家のブランドだけに依存しているんです。
たとえば、日本を代表するアーティストの村上隆。彼の作品は、海外の、最近では新興国の東南アジアの大富豪に売れているらしい。でも、一般人からしたら、何がいいのか、さっぱりわからない。アートのマーケットなんてそういうものなんです。私は村上氏の作品が正直とっつきがたくて理解不能なんですが、しかし、彼の著作を読むと、かなり顧客をシビアに読んで自作をセールスしているのがわかります。創作をだらだら続けていたら、いつかパトロンが見つかるだろうとか、誰かに才能を発見してもらえるだろうという待ちの姿勢ではないんです。彼の考え方は経営者に近い。

山中商会の最盛期には、うさんくさい田舎の民具やどこにでもありそうな家具や壺までが、東洋の神秘として色付けされて、海外で巨額の売上を誇るのです。

誰だか忘れましたが、日本画家の大家が、死の直前に自宅のアトリエになったスケッチや習作などをすべて焼き捨てた事件がありました。死後にそれらが発見されると、遺族には莫大な相続税がかかってしまうからです。ご本人はただ創作したかっただけなのに、その価値がかってに独り歩きして、抑制できないような値上がりをしてしまう。実体のない付加価値を背負わされ過ぎた芸術作品は、不幸です。たった一人のコレクターに購入されて、彼らの蔵の奥にしまいこまれて、日の目を見ることができないのですから。

こうしたアート市場の高額の取引は、アートに携わろうとする者の価値観を狂わせてしまいます。業界のごくごく一部の上位層だけが売上の多くを占めて引っ張っているだけで、大半の創作者たちは、食うや食わずやの生活。いったい、何がそうさせるか。それは、芸術創作に対する、過去の偉人がふきこんだ間違った神話です。

食品や生活用品、もしくは不動産や車にしても、ふつうは新品の方が価値は高いとされます。新しい方が安全基準も高いし、技術が進化した分、性能があがっているはずだからです。しかし、芸術的価値というのは、その商品としての価値観をひっくり返してしまいます。麻生太郎さんの読んでいる漫画と同じコミックは、古本屋にて100円で販売されているかもしれませんね。しかし、彼の祖父の吉田茂首相の邸宅は正確な数値はわかりませんが、かなり高額のはずです。一般のサラリーマンが買えるものではないでしょう。
 
減価償却という考えがなく、古びれば古びるほど価値が増す、もしくは現在価値が未来にひっくり返るという、異常な神格化のせいで、不要なアート品が大量に生まれている。死後に自分が残したものが称えられてほしい、という夢見がちな願いがそこにはあります。

アートの価値は個人が残したモノではありません。
それが伝えるメッセージです。創作者が伝える価値観の共感者が多ければ、それば時代の兆児となるでしょう。ブッダやイエス・キリストの弟子たちみたいに強力なシンパや理解者がいれば、後世にまでその偉業は伝えられることがあります。でも、価値観なんて、すぐに、それこそ世代が入れ替わるとごっそりと廃れてしまいますよね。

この秋口、各地で多くの展覧会が開かれています。
でも、作品について何ら語らず、ただ置きっぱなしで、はいどうぞ自由にご覧くださいのままでいる団体を眺めていると、少し不安になります。こうした芸術団体には、新聞社や報道各社などのマスコミや、大学などが協賛しており、補助金も流れているわけですけども、足を止めて眺めるひとはほとんどいなんですね、残念ながら。学校の教員か地元で名の知られた窯職人とか、大学で講座を持っている画家とか工芸家とか、そういうネームバリューがあるならいざしらず、まったくど素人の作品なんて良さがさっぱりわからない。ひどい言い方をすれば、みんな、産業廃棄物だと思われている。

創作者・表現物に対する無関心層に、どうやって効用を訴えるのか。
アーティストを名乗る人は、座談会のような内向きの対話や、冊子の配布や、SNSで一方的に発信するだけではなくて、もっとほかに観客を積極的に巻き込んでいく必要があるように思われます。作品の苦労とかそういうのをくどくど語るんじゃなくて、その作品が観る者にどんな感じを与えるのか。好き勝手に想像してくださいでは、なにも考えていなさすぎます。

なぜ、こんないやらしいことを書いたかといましたら。
私の過去の研究内容とか、出身学部を知って、ご趣味で作品発表されている方からお声がかりをいただくことが多いんです。中には団体展で華々しい受賞歴がある方も…。お母さん方にお子さんが絵を描いたからどう?って言われます。子どもだから、障害者だから、女の子だから、という特別なくくりで、価値を高く見積もるのは危険ですよね。盲目を装った作詞家がいたみたいに。

口に出してはいけないけれど、美の基準というのに絶対値はないんです。
それこそ、決算書で会社の数字を分析して良し悪しを見るような、そんな世界じゃない。あいまいな規準(カノン)しかないものは、誰か声の大きい人の判断力にみんな倣えになってしまいやすいんです。私はそれが怖い。あの人がこれを認めてくれた。じゃあ、その「権威者」はいつまで生きているんでしょうか? あなたの背後でずっと支えてくれるんでしょうか? 免許皆伝みたいに、それは意味があるのか? 違いますよね。士業の資格だって、取得したからえらいんじゃなくて、社会情勢に合わせて学んでブラッシュアップしていかなくちゃいけないんですから。

ですから、なにかを創作している皆さんにお願いしたい。自分の「仕事」の価値の基準値をきちんと持ってください。仕事の価値は、むろん、他者に必要とされることです。意味のない賞賛だけ得ても、あなたのプラスにはなりません。誰かを褒めて自分がいいことをしたいだけ、タダであなたの労力を搾取したいだけ、の人もいますので。あなたが全くの無報酬の趣味でいいと思っているのなら、それが多くに絶賛される、受け入れられるという淡い幻想を抱くのはもうやめましょう。それは、自分の価値観を誰かに依存しているんです。







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