信仰とは、望んでいる事柄を保証して、目に見えない物を確信させるものです。
あなたがたは恵みのゆえに、信仰において救われたのです。
それは、自分自身からでたのではなく、神からの賜物です。
神はその一人子を世に使わし、その方によって、私達にいのちをえさせてくださいました。
ここに神の愛が、私達にしめされたのです。
キリストイエスは罪びとを救うために、この世にこられた。
ということばはまことであり、そのまま受け入れるにあたいする。
私達が神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私達の罪の為になだめの供え物として、御子をつかわされました。
ここい愛があるのです。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって、救われたのです。
それは自分自身から出たのではなく、神からの賜物でrす。
どうか、望みの神があなたがたを、信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊によって、望みにあふれさせてくださいますように。
私達は見えるところではなく、見えない物にこそ目をとめます。
見える者は一時的であり、いつまでもつづくからです。
確かに、私達は見るところによってではなく、信仰によって、歩んでいます。
あなたがたは、信仰に寄り、神のみちからによって、守られており、終りの時に表されるように用意されている救いを頂いているのです。
私は20歳の時、イエス様を信じました。
その時、看護学校の寄宿舎生活をしていました。私の同郷で、同じ高校の先輩がいて、その人がクリスチャンだったのえ、私をバイブルクラスにさそってくれました。
そして、教会の夏季キャンプや学生会などにさそってくださり、イエス様の勉強をしました。
私を育ててくれたのは、熱心な日蓮宗のをしんじる祖父母でした。
なので、キリスト教のイメージはカソリック教会のすてきな建物がたつところぐらいのイメージしかありません。
イエス様の教えは、神の一人子なるキリスとが、私の心にある罪の身代わりにしんでくださり、私達がそのことを信ずれば、すべての罪がゆるされて、神の子とせられ、永遠の命をいただけるということです。
イエス様は私達の罪の身代わりに、十字架にかかって、死んで、三日目によみがえりました。
このことを信ずる人が信仰を持ってあゆんでいる人です。
この事は恵みにより、信仰によって、救われたのだ。と聖書は言っています。
それは自分自身から出たのではなく、神様からの賜物だといっています。
私が信仰をもつたのは、教会にさそわれ、牧師さんの話を聞き、家庭集会や修養会に誘われて、多くのイエスさまを信じる方々との交わりを通して、イエス様を信じたいという思いが与えられました。
私の性格はとても暗かったので、人とのコミュミュケーションがうまくできなかったという劣等感がありました。
もっと、明るくなって、人とのコミュニュケーションを楽しみたいという思いがありました。
イエス様におねがいすれば、その願いがかなえられることもしりました。
そして、教会にいきだしてから、2年後、イエス様を信じる決心をしました。
イエス様を信じても、とても苦しい事、つらいことがありました。
信仰をもって、48年になりました。
神様がいつも、私の心に共に居てくださり、どんな困難も乗り越えさせて下さり、心に平安があたえられ、すべての事が益と変えられたことを感謝します。
運命をデザインする。
人間というものは、自分の運命は自分で作っていけるものだ。
ということをなかなか悟らない。
アンリ・ベリクソン(哲学者)
動物は走り方を変えることはできない。
鳥は飛び方をかえることはできない。
だが、人間は生き方を変えることができる。
性格というものは、強い意思で変えていく事ができる。

昨夜、新宿ハイアットの東京カリスマ聖会に行きました。パウロ秋元先生の神様からのメッセージ→霊的な、リバイバルの土台は、感謝と賛美
イエス様を信じてる人達は、勝利をとってる。問題は、恐れ。
サタンの無駄な時間で、過ごさない。サタンは、惑わす。
私達が本当に愛するとき、喜ぶことを求める。助けてあげたい。困難、解決。問題から解放。病気を癒したい。神様がわからないと心配、愛されてるからわからなくなり、自分でやろうとする。サタンは、神様の原則を見えさせない、愛されないようにぼやかす。惑わす。神様は、具体的に働く。奇跡、技、栄光がみえる。普通におこる。幸せ、成功、最高の人生。失望、悔い改める。諦めない。助けがない、祈りをする。
しかし、私は、最近、み言葉の力に寄り、恐れはありません。
「何事もおもいわずらうjな、あなたの願いと思いを神に申し上げなさい。そうすれば、人知ではしることの出来ない神の平安があなたがたの心に宿ります。」以前ならおそれたことも、最近は思い患わなくなりました。すべて、神様におゆだねしています。感謝
メリークリスマス神様の祝福が豊かにありますように