稲城市教育委員会の『稲城の昔ばなし』には〈蛇より〉の行事について
下記のような話が紹介されている(要約)。
〈寛文二年に百村に疫病が流行り、村人たちはこれを防ごうと知恵をしぼった。
そして、村の妙見尊が天平宝字四年(七六〇年)に青龍にのって妙見山頂に天下られたという伝説を思い起こし、この青龍を作って祀れば、疫病が村に入ってくるのを防げるのではないかと考え、そのようにした。
村人たちは青萱を刈ってより合わせて大きな龍を作り、総出で妙見山に担ぎ上げた。その龍は妙見山の麓から山頂の神社までのびて、さらに山を七回り半もする長さであったという。
これによって疫病の禍はおさまり、以来現代にまでこの青萱の龍作りは伝えられている。妙見尊では、毎年夏の盛りの八月七日に「蛇より行事」を行い、新しい青萱の龍を妙見山に納めている〉
伝説では妙見尊は〈玄武〉ではなく〈青龍〉に乗って
この地にやってきたことになっている。
さらにこの〈青龍〉は〈蛇より〉の行事では蛇に変わっていく。
この行事は一名〈綱より〉とも呼ばれているらしい。
萱で縄をより蛇を作り、厄の侵入を防ぐという行事は
房総、東京湾一帯から連なる祭事らしい。
世田谷区奥沢神社には次のような民話が残されている。
〈奥沢の村では、毎年秋に入ると人々がだるくなってしまい、秋の収穫にも支障をきたすという難事が起きていた。これは魔物の仕業かと、名主さんや和尚さんや神主さんが寄り集まって相談し、村境などを清めたが、状態は良くならず、名主さんの長男やその奥さんも熱で寝込み、ついには元気な名主さんまでも熱を出してしまった。
その名主さんの夢に八幡の神が現れたのだという。神さまは、村の祭りに鳥居に縄で編んだ蛇を巻きつけ、祭りの前に村中を掃除するように、そして水を飲まずに湯をさまして飲むように、と告げた。
名主さんは熱が引いてから、村の祭りに間に合うように村の人々を指導し、縄の大蛇を作り、やぶやどぶをきれいにし、ごみを燃やし、家の風通しを良くし、生水を飲まぬようにさせた。それからは、奥沢村から病人はいなくなったという〉
奥沢神社の鳥居には今も大きな藁蛇がかかっている。
村落共同体を厄から守るために藁で作られた蛇が神社に奉納され、
鳥居や石段に安置されるという風習が、
この国で多いのかどうか、ワタシにはわからない。
ただ稲城市の妙見寺、妙見尊のように
神仏混淆が色濃く残る寺社があり、
〈蛇より〉の行事がいまでも続けられているのは
とてもおもしろいと思う。
蛇の身体がへりに横たわる石段を登る。
この石段も60段である。
階段の右に蛇の身体が伸びる。
その向こうは竹林。
階段が尽きると緩やかな坂道になる。
そしてまた石段である。
この石段は急勾配で登るのに難儀しそうだ。
左に緩やかな坂道がある。
こちらを抜けることにする。
あとで知ったのだが、
この坂道は〈女坂〉と呼ばれている。
男はあの急な石段を登るのだろう。
坂道の途中にあった井戸跡らしきもの。
上から見下ろした階段。やはりこの急勾配は年寄りには危ない。
坂道を登り切ると平坦な広場になる。
石段からの正面に本殿がある。
これが妙見寺の奥の院、妙見尊か。
案内板には
〈妙見宮宮殿は市の社寺建築調査により発見された棟札から江戸時代前期の元禄16年(1703)に建立されたことが明らかであり、市内の本殿建築では穴澤天神社本殿、青渭神社本殿、杉山神社本殿に次いで古い建築物である。構造は一間社流造、こけら葺、丸柱で、桁行5.60尺(約1.70m)の規模である。本殿向拝の水引虹梁木鼻に見られる暘彫刻などはこの時期の周辺地域には見られない先進的な技術を示している。全体として建築当初の形式をよく伝えており、市内の神寺建築の中では古くかつ歴史的の高い本殿建築である〉とのこと。
拝殿の上部には玄武が彫られている。
〈本殿向拝の水引虹梁木鼻に見られる暘彫刻〉とはこれを指すのだろうか。
文政3(1823)年建立の筆塚。
今は使われていない様子の手水舎。
手水舎の龍。
手水鉢を支えるのは〈がまんさま〉だろうか?
〈続く〉