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ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

黄燐と投げ縄 パート2

2006年01月16日 22時53分59秒 | 書評のようなもの
 さて、詩集のタイトルである「投げ縄」がモチーフとして取り扱われている「壁と翳」について自分なりの感想を書いてみたいと思います。
 この詩のなかで詩人と壁との関わりについて次のように歌われています。
「壁に掛かっているもの/月めくりのカレンダー」、
「壁に掛かっていたもの/子供用の野球帽」、
「壁に掛けなかったもの/家族の写真」、
「壁に掛けたかったもの/西部男の投げ縄」
月めくりのカレンダーとは過ぎ去った日々であり、子どもの野球帽とは子どもに託したかった夢であり、家族の写真は果たせなかった在るべき家族の姿、そして西部男の投げ縄は「暗闇の十七才のぼくに向って」、つまり過去の自分への憧憬なのかと思います。でも、「暗闇の」とあり、この辺がシニカルな詩人たる所以であるようです。Yockだったら「輝いていた」とするだろうなと思います。そして、この詩は「ぼくの六畳間の窓際では/今日も翳のように透明な埃が立っているんだ。」と結ばれています。
 構造的にも簡潔なつくりになっている、この詩は過去の清算、来るべき終わりの時に視点が向いているのかなと感じます。「透明な埃」、心の押し入れから引き出した過去を畳み直し整理するときに立つ「埃」ではと推測します。未来が見えないだけに辛気臭い詩に思えるかも知れません。また、西部男、西部劇全盛だった大昔は別として、ネットで調べないと判りませんよね。多分、ローハイド、シェーンとかのイメージなんだろうけど。

清水哲男のサイト
『増殖する俳句歳時記』
URL: http://zouhai.com/index.html



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黄燐と投げ縄について

2006年01月15日 22時43分57秒 | 書評のようなもの
 久しぶりに購入した有名詩人の詩集「黄燐と投げ縄」、著者は清水哲男です。Yockは清水哲男の「スピーチバルーン」1975年刊、評論・エッセイ「ダグウッドの芝刈り機」1978刊を所蔵していました。
 野村喜和夫によれば「類稀なユーモアとアイロニーの精神」を持つ詩人と称される清水哲男、平易な言葉でつづる詩行は軽妙でありながら示唆に富んでいて、思わず幾度と読みたくなる詩が多かったと記憶します。
 さて、今回の詩集、あとがきによれば「夕陽に赤い帆」、「緑の小函」に続く交通信号3部作の完結編とか。完結するまでに流れた4000の日々。1938年生まれですから、今年で68歳になる清水哲男。60年安保を全学連主流派として通過した詩人でありながら、あからさまな新左翼的な詩は見かけないと思います。(間違っていたらごめんなさい)
 著作権の問題もあり、どの程度詩集から詩行を引用出来るのか、ちょっと手探りですが、個人的なブログってこともあり、ある程度は勘弁して欲しいです。それから詩の批評には馴れている訳ではないので、結構適当な事を書くかもしれません。その辺はご愛嬌って感じで、ご容赦賜りたく。

1.小さな舟の歌
 「私がまだ舟でなかったころ/まだ川も海も見たころがなかったころ/中略/突然に芽生えた夢が夢のままであったころ//気がつけば私は夢の真ん中に浮んでいて/今こうしてあなたに小さな歌をうたっていて。」
 巻頭を飾るこの詩、「…でなかったころ」と繰返される詩行は、詩人と自然との関わりについて述べられ、それを受けた最後の2行は、力まずに、まるで自己紹介のように感じます。反面、肩の力が抜けすぎていて読み手としては肩透かしを食らった気がしないでもないです。
 詩集全体を通じでなのですが、輝くようなメタファーは見かけられませんし、読めないような難解な漢字も用いられていません。それが逆に詩人の懐の深さを感じてしまいます。
 Yock自身そうなんですが、詩を書いていると、どうしてもアクセントって訳では無いのですが、コジャレたフレーズのひとつも散りばめたくなるものです。また、字面に頼るってことなのかな、ちょっと詩行に行き詰まると字面の持つイメージに寄りかかってしまいます。
 う~ん、詩歴の違いかな?


■■ 多分、続きます♪ ■■


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『増殖する俳句歳時記』
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