歌舞伎見物のお供

歌舞伎、文楽の諸作品の解説です。これ読んで見に行けば、どなたでも混乱なく見られる、はず、です。

歌舞伎の「古典」と「新作」について

2008年11月20日 | 歌舞伎の周辺
なぜ、歌舞伎は昔の時代のお話しかやらないのか、
ときどき近代劇っぽいのもやるけど、いつの時代のまでは題材として「アリ」で、いつごろのから「ダメ」なのか、
古いのを繰り返し出している印象だけど、新しいものはもう作らないの?
というかんじの疑問をお持ちのかたのために、書いてみます。

歌舞伎は、
作品としては「古典」と「新作」とに分かれます。
演出方法で言うと「江戸歌舞伎(古典)」と「近代歌舞伎」にわかれます。
いちおう、作品としての区分と、演出面での区分と、微妙に分ける基準が違います。
今は「古典」は江戸歌舞伎風に古い演出で出し、「新作」は近代的な演出で出すことが多いですが、
明治から戦前にかけては「江戸歌舞伎」を新しい演出で出す試みなどもありました。
また「新作」であっても、あえて江戸歌舞伎風の古い演出方法で出すことは今も多いです。

・まず演出方法について書きます。
「江戸歌舞伎」について。
もちろん江戸時代にも演出方法の変遷やハヤリスタリはあったわけですが、鎖国体制下で我が国の趣味嗜好の中だけで工夫され続けてきたのが「江戸歌舞伎」ですので、一定の傾向はもちろんあるわけです。
もちろん今同じものを今見ることはできませんが、当時の上演作品の全てについて「役者評判記」が残っているので(活字大国!!)その概要を知ることが出来るのと、
当時の役者さんの書いた文章が残っていたり、あとは、明治になってからも江戸風の演出や演技は当然残っていたので、そういう記録から
だいたいどういう雰囲気のものだったか、演出の内容や役者さんの演技の雰囲気をうかがいい知ることができます。
全体に、「派手に」「おおげさに」「美しく」「重厚に」がキーワードです。
あと、お芝居全体が、「知っている」お客さんに繰り返し見せる、という意識で作られています。
そして大芝居といわれる大劇場でも今よりずっと小さいです。
なので、演出面でも脚本面でも、よくいえば「お客さんと一緒にひとつの舞台をつくる」雰囲気、
悪く言うと「馴れ合った」雰囲気が、随所にあったのです。
これがいい方に傾くと「お約束」をうまく使った洗練されたわかりやすい舞台になりますが、失敗するとグダグダです。
これはまあ時代にもより(江戸時代といっても長いので)、毎回出すお芝居にもより、いい部分も悪い部分も内包しながら、江戸歌舞伎は、しかし決して退化はせず、常に発展し続けながら、明治維新を迎えました。


「近代歌舞伎」は明治以降、西洋の演技や演出の影響下に「改善(当時ビジョン)」された演出方法での歌舞伎です。
だいたい、明治初期の名優、九代目団十郎と五代目菊五郎の舞台、「団菊(だんきく)」と略します。
このの前を「古典(江戸歌舞伎)」、以降を「近代」と分けます。
古典にくらべて近代にものは、演技の様子や衣装なども、リアリティー重視です。
さらに、明治時代は衣装や道具などについて、時代考証に細部までこだわる「活歴(かつれき)」という作劇様式が流行りました。
江戸歌舞伎は見た目重視で時代考証は二の次(というかあまり考えていない)だったのですが、それを否定した動きでした。
江戸時代や戦国時代が舞台のお芝居ならそこまで違和感はないですが、鎌倉時代や平安時代が舞台の「源平もの」や「曽我もの」については、昔ながらの演出とのギャップが大きくていろいろトラブルもあったようです。
今は、江戸期に作られた古典作品については、江戸風の古い演出で出すのがあたりまえになっています。

ところで歌舞伎の古典的な演出については、「昔からまったく変わらない、変えようとしない」ように思われていますが、
実は明治から戦前にかけて、古典的な演出であっても、ほんとうにいろいろの工夫がされて、昔ながらのよさを残しつつ近代的に変化した部分もとても多いのです。
江戸時代の人が今の「古典歌舞伎」を見たら、たぶんびっくりすることでしょう。


明治時代について言うと、時代の変わり目はいろいろ天才が出るので、
劇場経営面でも何人か天才が出ました。
初めての近代的な劇場を作った十五代目守田勘弥(もりた かんや)や、有名俳優同士の複雑な利害関係をうまく裁いてさまざまな興行を成功させた田村正義などが有名です。

この田村正義は江戸時代には成人していた人なので、古い歌舞伎の事もよく知っていたのですが、
著書(聞き書きですが)「無線電話」の中で、江戸後期の名優であり、江戸古典歌舞伎の象徴のようにも思われている七代目団十郎について
「彼の演技のほうが、(活歴の象徴である)九代目団十郎よりも、よっぽどリアルで「活歴」らしい」という意味のことを言っていたのは、非常に興味深いところです。ってこれは余談です。

また歌舞伎(お芝居)が「芸術」として認められ、お国がお金を出す時代になったのもあって、お芝居の経済規模が大きくなり、上演資金に余裕が出来ました。
というわけで大きな劇場が作られ、いろいろ大がかりで凝った演出が出てきます。ガスや電気が使えるようになって照明技術も進化します。
演出面でもさまざまな新しい試みがなされました。


ところで、江戸時代よりはかなり大きくなったとはいえ、戦前までの歌舞伎舞台の大きさは、大劇場でも今の半分くらいだったと思います。照明もかなり暗いです。
歌舞伎の演出は明治→戦前あたりまでで大きく変化して定着し、そこから現代までは大きく変化はしていないと思うのですが、
同じ演出でも昔と今では舞台の印象はずいぶん違うはずです。
こんなに広い場所で、しかも隅から隅まで明るく見える状態を、昔の演出は想定していないのです。
もちろん、舞台の広さや照明にあわせて現代の歌舞伎はずいぶん工夫はしているはずですが、大まかな演出の段取りやセリフ回しは変わっていません。
なので一階の舞台そばでお芝居を見るより、3階席でなんとなく全体を見た方が、舞台から受ける印象としては正しいんじゃないかとワタクシは思っています(高い席買えない言い訳)。



・脚本の話をします。
「古典歌舞伎」と「新作歌舞伎」に別れます。
もちろん、だいたい江戸から明治になった変換期を境に「古典」「新作」と分けるのですが、
江戸後期から人気作家だった河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)は明治になってもそのまま活躍していますので、彼や彼の弟子の三代目河竹新七の書いたものは、明治中、後期の作であっても「新作」とは呼びません。
同時代のものでも、もともとお芝居の中の人でない、いわゆる「学者、文化人」である、坪内逍遙や森鴎外の書いたものは、「新作」です。
おおまかに、江戸時代からある芝居小屋の「座付作者」の書いたものは、明治以降のものであっても「新作」には分類しない、それ以外の門外漢の書いたものは「新作」ということでいいと思います。
ただ、黙阿弥の作品でも、明治以降になって成立したジャンルであるいわゆる能由来の「松羽目もの」は、「新作」と呼ぶと思います。
むしろ「松羽目もの」の多くを黙阿弥が書いたということを意識している人が少ない気がします。

明治以降に書かれた作品の特徴として、登場人物の役名があります。
徳川時代は治安維持の目的もあって当時の有名な事件や、江戸幕府に関係する人物の実名を歌舞伎に使ってはいけないという規制をしていました。
なので江戸時代の歌舞伎作品はさまざまな事件を舞台化するときは、全て仮名を使ったり、内容を少し変えたりして上演しました。
その規制がなくなった明治以降の作品は、歴史劇の登場人物も全て実名で、内容もできるだけ史実に沿ったようにかかれます。
その点も大きく違うところです。


・つぎに、何故、歌舞伎は現代の話をお芝居にしないのか書きます。

「時代物」と呼ばれる、江戸時代以前のできごと(太平記ものとか源平の戦の話とか)を題材にしたお芝居をを除けば、江戸時代の歌舞伎は普通に当時の風俗を、そのまま舞台に乗せていました。
当時は「歌舞伎」はべつに特別なお芝居のジャンルではなく、「芝居」といえば「歌舞伎」のことだったわけですから、
「歌舞伎」の舞台で、普通に当時の「現代劇」をやっていたわけです。
明治になります。江戸風俗はどんどん失われます。
それでも、江戸時代からお芝居を書いていた河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)なんかは当たり前のように当時の(明治の)風俗を舞台に乗せます。これがいわゆる「ザン切り狂言」です。
赤毛のガイジンさんが出てきて気球に乗って英語で演説するような舞台まであったのです。
歌舞伎がまだ「古典芸能」ではなく、ふつうに「お芝居」だった時代です。
逆に、江戸時代の作品を明治風の風俗に焼き直して上演するような試みも、ランクの低い「小芝居(こしばい)」と呼ばれる劇場を中心にですが、ありました。

極端な例だと、「開化忠臣蔵」というお芝居がありました。
塩治商会のお家騒動で社長が自殺。専務だった大石さんが会社建て直しのために奔走、鹿鳴館の夜会で女学生ルックのお軽とダンスを踊る、みたいな内容です。大正時代くらいです。かなり小さい、木戸銭も安い小屋で上演されたようです。
ここまで行くと歌舞伎にカウントできるかビミョウですが。

こうして歌舞伎は、「ふつうのお芝居」として近代風に変化していくかと思われた時期もあったのですが、

江戸変体仮名や古典文法、江戸時代のスラングの意味を理解できない明治以降の世代が増えていくにつれて、歌舞伎の内容は多くの見物客にとって理解しにくいものになっていきます。
しかし、たとえばセリフを完全に現代語に訳したとしても、当時の風俗や習慣の説明は必要です。言葉を変えると完成度が下がります。
現実問題として「現代人に理解できるように歌舞伎をアレンジする」ことは不可能です。

こうして歌舞伎は、多少理解しにくい、古い美しい形を残したままに「古典芸能」にシフトしていきます。

とはいえ戦前まではまだまだ現代語で書かれた「新作現代劇」も作られております。「当世五人男」くらいだと戦後になっても上演されていたのではないでしょうか。
戦争の間も初期だと、まだお芝居はやってたのですが、ていうか空襲で歌舞伎座が焼けるまでずっとほそぼそやっていたのですが。終戦の翌月にはもう東劇でやってるし。
まあそれはどうでもよくて、
そのころだと勇敢な兵隊さんを主人公にした戦争ものが何本も上演されているはずです。「はず」というのは2本くらいしか資料が手元にないからですが、
「当時の風俗を写した現代もの歌舞伎」というのは、戦前までは「アリ」だったということでいいと思います。

とはいえやはり、江戸風俗の舞台の方が受けたことはたしかです。ザン切りものは今はほとんど上演されることはありません。
江戸風俗は、「機能より見た目重視」な、美しくもひたすら採算度外視の文化です。国際競争力とか考えなくてはならない明治以降の、しかも野蛮な西洋文明の影響下の風俗が、太刀打ちできるはずもありません。
演出的にあれ以上見ばえのいいものは、ちょっと作れないだろうと思います。

戦争が終わってからの歌舞伎については、現代風俗のものは皆無に近いかと思います。新作そのものの数も減ります。
戦前に台頭してきた新派(新派歌舞伎)その他の現代劇が定着してきて、現代風俗やザン切り風俗は、歌舞伎には必要ないジャンルになっていったのもあるでしょう。

昨今の「新作」ですが、あるにはあります。
瀬戸内なんとかさんの「源氏物語」とか菊五郎が出した「児雷也」とかです。
まああまり出来のいいものは多くないです(おい)。あ、吉右衛門さんが松葉目ものの脚色を何本かなさっています。これはすばらしいです。
どれも、「古典作品を原作とした、脚色作品」です。
昔のように完全にオリジナルの「新作」はありません。

オリジナルで歌舞伎の「新作」が出たのは戦前までではないかと思います。

現代人は「歌舞伎がどんなもんか」をまず、知りませんから、「歌舞伎らしい」作品をイチから書き起こすには、旧作や浄瑠璃を全段通しで100本は読まないとムリだと思います。
でないとカタチだけマネした(つもり)の「なんちゃって歌舞伎」になってしまいます。
その上で、今残っている作品、天才たちが書き残した作品と同レベルに「おもしろい」物語を書く、一流のプロ作家としての作劇スキルが必要です。でないと旧作に太刀打ちできません。
ムリです。
中途半端なシロウト作品を出すなら上演が途絶えている古典を掘り起こすほうが効率いいのです。

あと、たとえ現代語で書くとしても古典文法でセリフが書ける程度の文法力と語彙は必要だと思います。
さらに、歌舞伎以外の古典作品(「伊勢」や「源氏」や各種戦記もの)も読んでいないと苦しいですし、和歌の素養もほしいところです。
戦前の「文化人」と呼ばれる人々は、それくらいの「教養」を普通に持っていたのです。今の「文化人」とはレベルというか、種類が違います。

そういう「歌舞伎が歌舞伎であるための」基礎教養を無視して、見た目歌舞伎っぽいものを作ることはできると思います。
初心者さん向けにハードルを下げてわかりやすいものを出し、演出のおもしろさをまず見てもらう、というのはいい作戦だと思います。
むしろそういうものを作るのは楽しいと思いますし大賛成です。

ただそれは、一般的に「歌舞伎」と呼ばれているものとはやはり違う何かだろうなと思います。
例えるなら、N響がアニソンやゲーム音楽のコンサートをやるようなかんじです。
クラシック楽器の響きに親しんでもらうにはいい企画ですが、アニソンをどうアレンジしてもクラシック音楽にはならない、
そういうかんじだと思います。

あと、歌舞伎はやはり、封建時代の価値観と美意識を前提に作られたものなので、新作を作るにしてもそのテーマとなる美意識の部分は変えられないと思います。
主君のために切腹とか、家と恋との板ばさみになって心中とか。

昔とは違う現代の倫理観、価値観の中で昔風の物語をムリに作っても、美しくないでしょう。逆に現代風の物語を作ったら、それはおそらく歌舞伎の演出とは相容れないと思います。

風俗的な違和感よりもそういう内容面、精神面での相容れない部分が、現代のものがたりを歌舞伎にできない理由だと思います。


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