これも、以前やっていたサイトで質問いただいたものです。
:いただいた質問です
見る側の教養に頼って今の歌舞伎が成り立っているとしたら
それは後世の為にはよろしくないわけで、
当然、「わかりやすい」「親しみやすい」努力をしてると
思うんだけど、どうなんでしょう。
役者さんが俳優として活躍されてるのも
そんな理由からなんでしょうか。
役者さんがテレビとかに出るのは、「親しみやすくする」というか、
「知名度が上がると動員力が上がる」という、とてもわかりやすい理由だと思います。
このふたつが同じことを意味するのかは、わかりません。
でも、テレビによく出る役者さんはどうしても芸が荒れるかたが多いと思います。
とくにベテランで知名度が高いかたに、「お稽古してないなあ」的に「下手」に感じる方が多いです。でも動員力はある。舞台のレベルは低いけど。
お客さんも「こんなもん?」と思って帰っていくのかもしれません。
でも動員力はある。
歌舞伎座の箱なんて3千人くらいですから、二度と来ないかたが殆どでも、テレビを見てどんどんお客さんを呼べば経営上はリクツが合います。
これが歌舞伎の将来のためにいいのか悪いのか、ワタクシにはわかりません。
あの程度の舞台でも満足して、リピーターになる人もいるのかもしれません。それがいいことなのか悪いことなのか(略)。
もちろん、同じくらいの年代のかたで、すごく勉強も努力もなさってすばらしい舞台を作るかたも何人もいます。
テレビに出ているかたでもちゃんとお稽古なさっているかたもいると思います。とくに若いかたはそうかもしれません。
さて、
歌舞伎をわかりやすくする、とうことで、 いちばんてっとり早いのは、とにかく
「わかりにくい作品はどんなに名作でも出さない」だと思います。
実際、有名どころをちょっと思い出しても、20年30年前は人気があったのに、今はほとんど出ない段はけっこうあります。
たまに出ても寝てるお客さんが多いですからしかたありません。
これが歌舞伎の後世にとっていいのかどうか、やはりわかりません。
あとは、とにかく目の前のその作品を理解するのに最低限必要なデータを、ということで、
場内で「筋書き」販売や「イヤホンガイド」などのサービスはしています。
原稿用紙にして3~4枚程度の文章に、内容がものすごくわかりやすくまとめられています。
これ買って読むのすらめんどくさいかたは、もう、しかたないのでは?
あとは、あまりにわかりにくいセリフははしょられたり、シーンごとカットされたりもしています。
まったく、何の予備知識もなく見て、テレビドラマの様に楽しめないとダメ、ということでしたら、
歌舞伎でない、何か歌舞伎に似た新しい娯楽を作らなければならないと思います。
しかし、実際は、役者さんも、裏方さんも、クオリティーの高い歌舞伎の舞台を作るためにはものすごい量のお稽古と、勉強をなさるわけです。
歌舞伎の舞台上にある情報を100としたら、ふつうに見て理解できるのは多くて3~5くらいでしょう。
それでも、楽しくないかと言えば、楽しい。わけがわからないけれど存在はしている膨大な情報量の迫力はすごい。
じっさい、特に内容はわからなくても「楽しいから」で何度も歌舞伎をご覧になるかたはたくさんいますよね。
勉強すれば20か30くらいはわかるようになると思います。 ワタクシはこのへんかなと自分では思います。
理解できない残りの70を「親しみやすくするために捨てろ」とは言えません。
ていうか、歌舞伎を見るのに最低必要な「教養」というと
「百人一首」「源平、太平記の流れと主な武将」
とりあえずこれがアタマに入ってるだけでずいぶん違うわけで、
後はセリフ聞き取るために古典文法。
高校出てればわかってるはずのことばかりです。
もうちょっと知ろうと思ったら「伊勢物語」「源氏物語のあらずじ」「古今和歌集」。これも高校で多少は習います。
歌舞伎に「降りて来させる」よりは、見る側が国民レベルで「上がっていく」ほうが絶対正解だとは思います。
歌舞伎の未来のためにでなく、日本人の未来のために。
今、こうやって歌舞伎や古典とは無関係な時代に生きている我々も、
好む好まないや、自覚の有無にかかわらず、一次言語として日本語を使い、日本の生活習慣(ずいぶん崩れちゃってますが)の中で生きている以上、
この国独自の価値観や倫理観の外でモノを考えることは絶対にできないのです。
日本の伝統や文化は、どんなに薄まり、崩れても、我々のアイデンティティーの一部であることは変わらないのです。
だから、その文化の大もとに近い部分についてちょっと詳しくなることは、決してムダなことではないと思います。
我々が根本的なところで自分を好きになる手助けになるかもしれません。
そういう「勉強」を、歌舞伎見物という「娯楽」ついでにちょこちょこやったらずいぶん楽しい。
そんな考え方じゃ、ダメでしょうか?
:いただいた質問です
見る側の教養に頼って今の歌舞伎が成り立っているとしたら
それは後世の為にはよろしくないわけで、
当然、「わかりやすい」「親しみやすい」努力をしてると
思うんだけど、どうなんでしょう。
役者さんが俳優として活躍されてるのも
そんな理由からなんでしょうか。
役者さんがテレビとかに出るのは、「親しみやすくする」というか、
「知名度が上がると動員力が上がる」という、とてもわかりやすい理由だと思います。
このふたつが同じことを意味するのかは、わかりません。
でも、テレビによく出る役者さんはどうしても芸が荒れるかたが多いと思います。
とくにベテランで知名度が高いかたに、「お稽古してないなあ」的に「下手」に感じる方が多いです。でも動員力はある。舞台のレベルは低いけど。
お客さんも「こんなもん?」と思って帰っていくのかもしれません。
でも動員力はある。
歌舞伎座の箱なんて3千人くらいですから、二度と来ないかたが殆どでも、テレビを見てどんどんお客さんを呼べば経営上はリクツが合います。
これが歌舞伎の将来のためにいいのか悪いのか、ワタクシにはわかりません。
あの程度の舞台でも満足して、リピーターになる人もいるのかもしれません。それがいいことなのか悪いことなのか(略)。
もちろん、同じくらいの年代のかたで、すごく勉強も努力もなさってすばらしい舞台を作るかたも何人もいます。
テレビに出ているかたでもちゃんとお稽古なさっているかたもいると思います。とくに若いかたはそうかもしれません。
さて、
歌舞伎をわかりやすくする、とうことで、 いちばんてっとり早いのは、とにかく
「わかりにくい作品はどんなに名作でも出さない」だと思います。
実際、有名どころをちょっと思い出しても、20年30年前は人気があったのに、今はほとんど出ない段はけっこうあります。
たまに出ても寝てるお客さんが多いですからしかたありません。
これが歌舞伎の後世にとっていいのかどうか、やはりわかりません。
あとは、とにかく目の前のその作品を理解するのに最低限必要なデータを、ということで、
場内で「筋書き」販売や「イヤホンガイド」などのサービスはしています。
原稿用紙にして3~4枚程度の文章に、内容がものすごくわかりやすくまとめられています。
これ買って読むのすらめんどくさいかたは、もう、しかたないのでは?
あとは、あまりにわかりにくいセリフははしょられたり、シーンごとカットされたりもしています。
まったく、何の予備知識もなく見て、テレビドラマの様に楽しめないとダメ、ということでしたら、
歌舞伎でない、何か歌舞伎に似た新しい娯楽を作らなければならないと思います。
しかし、実際は、役者さんも、裏方さんも、クオリティーの高い歌舞伎の舞台を作るためにはものすごい量のお稽古と、勉強をなさるわけです。
歌舞伎の舞台上にある情報を100としたら、ふつうに見て理解できるのは多くて3~5くらいでしょう。
それでも、楽しくないかと言えば、楽しい。わけがわからないけれど存在はしている膨大な情報量の迫力はすごい。
じっさい、特に内容はわからなくても「楽しいから」で何度も歌舞伎をご覧になるかたはたくさんいますよね。
勉強すれば20か30くらいはわかるようになると思います。 ワタクシはこのへんかなと自分では思います。
理解できない残りの70を「親しみやすくするために捨てろ」とは言えません。
ていうか、歌舞伎を見るのに最低必要な「教養」というと
「百人一首」「源平、太平記の流れと主な武将」
とりあえずこれがアタマに入ってるだけでずいぶん違うわけで、
後はセリフ聞き取るために古典文法。
高校出てればわかってるはずのことばかりです。
もうちょっと知ろうと思ったら「伊勢物語」「源氏物語のあらずじ」「古今和歌集」。これも高校で多少は習います。
歌舞伎に「降りて来させる」よりは、見る側が国民レベルで「上がっていく」ほうが絶対正解だとは思います。
歌舞伎の未来のためにでなく、日本人の未来のために。
今、こうやって歌舞伎や古典とは無関係な時代に生きている我々も、
好む好まないや、自覚の有無にかかわらず、一次言語として日本語を使い、日本の生活習慣(ずいぶん崩れちゃってますが)の中で生きている以上、
この国独自の価値観や倫理観の外でモノを考えることは絶対にできないのです。
日本の伝統や文化は、どんなに薄まり、崩れても、我々のアイデンティティーの一部であることは変わらないのです。
だから、その文化の大もとに近い部分についてちょっと詳しくなることは、決してムダなことではないと思います。
我々が根本的なところで自分を好きになる手助けになるかもしれません。
そういう「勉強」を、歌舞伎見物という「娯楽」ついでにちょこちょこやったらずいぶん楽しい。
そんな考え方じゃ、ダメでしょうか?
とは言っても中学生の分際でも南北以降の台詞なら半分くらいはわかりますよ。それくらいで別に構わないと私は思います。正直想像力とストーリーの知識であとは補うんだと思います。
全く関係ない所だけれども、西洋音楽だって素人が初聞で何をしゃべってるかわかるのはロマン派くらいで、その先のプロコとかショスタコって相当耳鍛えてないと何しゃべってるか(弾いてるか)全然意味不明だし楽譜見たことないと100%理解とか不可能。だけど、楽しめる。芸術ってそんなものだと思います。わからないけど愉しい。その辺が普遍性、っていうものかしら。だってそうじゃないと歌舞伎の西洋公演が受ける理由がわからない。
でも日本人がレベルアップしてわかるようになるのは正しい方向だとは思います。だってより分かった方が愉しいもん。
・・・でもそのためには古文の教育とかマトモにしなきゃいけないみたいですね。今の高校では何となく試験を落とさなきゃいいやみたいな感じで誰も真面目に勉強してないのでは?と学校の先輩とか見ていて思います。英語が使えない大人が増えるのと同じじゃないかな~もっと酷い!?
歌舞伎の将来を考えたときに、江戸末期の風俗を凍結したままの今の歌舞伎だけでいいのかというのは考えさせられます。まあ今はそれが歌舞伎、といえるかもしれませんがなんか特殊すぎるかしら、と思います。まあでも変な時代考証してもらしくない物が出来上がるのかしら。今のグダっている文化を反映させる必要性は0ですがなんというか300年後には今サイト主さんのような方がしている説明すら通じなくなるのではと。どうすればいいのかはよくわかりません。多分将来的にも少数派の高級趣味になってしまうのはもう避けられないでしょう。
長文失礼
というか人形浄瑠璃も面白くなるんじゃないかしら。
今もお年寄りなどには子供のとき日本舞踊とか三味線をやってた人とか一定数いるみたいで、その人たちは歌舞伎(僕らにはわからない所作を含め)を存分に楽しんでおられるだけじゃなくて、芸の善し悪しもよくわかるそうです。
だから今みんながピアノとかバイオリンをやるみたいな感覚でそういった芸を学ぶようになればレベルも自然に上がるのかと・・・でもそんなのどうしようもないですよね。ごめんなさい。