歌舞伎見物のお供

歌舞伎、文楽の諸作品の解説です。これ読んで見に行けば、どなたでも混乱なく見られる、はず、です。

「曽我もの」について解説

2011年09月25日 | 歌舞伎の周辺
江戸歌舞伎には欠かせない「曽我もの」。
「忠臣蔵]と並んで、本当にいろいろな歌舞伎作品に「曽我兄弟」の物語の設定は混ざりこんでいます。
しかし、今日びの日本人にはなんじゃらほいな題材であることもたしかです。

戦前くらいまでは義経さまや太閤さまと同じように誰でも知っているお話だったので、
歌舞伎の作品内に「曽我もの」についての説明的な描写は皆無です。わかってあたりまえ。
なので、基本的な共通設定の解説を書きます。読んでおくとなにかと便利だと思います。

・素材となった史実

発端は平安末期。まだ平家が全盛のころのできごとでした。
伊豆、伊東のあたりが舞台です。都のほうは平家が権勢をふるったり、もう少しすると滅びたりとおおさわぎですが、
東のこのへんは新興の大名たちが勢いを得て、ノリノリの時代です。

当時このへんで力を持っていた豪族のひとりが「工藤祐経(くどう すけつね)」です。
この工藤祐経が、領地争いが原因で、配下の(ていうか従弟の)「伊東祐親(いとう すけちか)」、「祐泰(すけやす)」親子を襲撃し、息子の「祐泰」を殺します。
ていうか乱暴だなあ。当時の東国武者は本当に乱暴です。

この殺された「伊東祐泰」さんは、またの名を「河津三郎祐泰(かわづさぶろう すけやす)」といいます。
こっちの名前のほうが有名有名です。
お相撲の決まり手「河津がけ」の考案者です。
その名の通り「河津」地方を領地としていました。河津桜が咲くあのへんです。

一般には、「俣野五郎(またの ごろう)」というひとが河津三郎さんに相撲で負けて恥をかき、その遺恨で殺した、
と見せかけて、じつは工藤が最近目障りな河津三郎を葬るべく裏で糸を引いていた。
というハナシになっています。

河津三郎さんについては、この人が主役の「鴛鴦襖恋睦 おしのふすま こいのむつごと」という所作(踊りですね)もあります。
この作品の中にも俣野五郎と河津三郎が相撲を取る場面があります。

「俣野五郎」は、「石切梶原(いしきり かじわら)」というお芝居に出てくる乱暴な赤い顔のお兄さんと同一人物です。
どの作品でも典型的な乱暴ものの東国武者として描かれます。

さて、本題です。
殺された河津三郎さんにはふたりの息子がいました。
「一万(いちまん)」くん5さい、「箱王(はこおう)」くん3さい。
ふたりは母親と共に相模の国の曽我(千葉の蘇我ではないよ)の豪族、「曽我太郎祐信(そがのたろう すけのぶ)」にあずけられて成人(元服)します。
そして養父の名字を名乗って

曽我十郎祐成 そがのじゅうろう すけなり(兄)=曽我十郎
曽我五郎時致 そがのごろう ときむね(弟)=曽我五郎

と名乗ります。
ああやっと「曽我もの」らしくなってきました。

というわけでお父さんが殺されてから17年。ときは鎌倉時代。1993年5月(旧暦だから六月ごろ)。
鎌倉幕府ができた翌年です。
場所は富士山のすそ野。

工藤祐経は頼朝の命を受けて富士のすそ野での大巻狩という一大イベントの総奉行としていろいろ手配をしました(頼朝はとても狩り好き)。
狩りは大成功。みなさん満足してそれぞれの宿舎で眠りますよ。
こういう大きなイベントのときは、戦のときもそうですが、主だった武将や大名は、仮に家を作ってそこで寝泊りします。
「陣屋」というやつです。けっこうりっぱな家です。

そこに忍び込む曾我兄弟、
こうして兄弟は、工藤を殺し、父の敵を討ったのです。

このできごとは中世のヒトビトのココロを強く打ち、「曽我物語」という語り物の芸能作品が作られました。
河津三郎が殺されるまで、兄弟が苦労して育つ様子、家来たちの忠義、工藤との対面、富士のすそ野での本懐達成、
そして時の執政者源頼朝の裁きによって五郎が処刑される(十郎は討ち死に)までです。
これを素材にして歌舞伎の「曽我もの」というジャンルが生まれます。

・お芝居になった「曽我もの」
というわけで史実を、というか「曽我ものがたり」を題材として、いろいろお芝居が作られました。

幼い兄弟が艱難辛苦の末にりっぱに成長してがんばって敵討ち。
兄(十郎)は冷静沈着で優美な知性派、和事。
弟(五郎)は荒々しい武闘派、荒事。
でもってどっちも強いぞ、とくに五郎はむちゃくちゃ強いぞ。
五郎はまだ元服前の、でも体は大きく強力のやんちゃ坊主です。
なのでキャラクター的にも題材的にもものすごくお芝居にしやすく、特に華やかで荒っぽい江戸歌舞伎にぴったりだったのです。

「曽我もの」は江戸では本当に人気があり、とにかく、毎年初春狂言は「曽我もの」を出す、という決まりがありました。
今の歌舞伎は新作ものは稀で、昔作られた作品を繰り返し上演していますが、
昔の歌舞伎はただの「お芝居」です。基本的に上演のたびに新作を作ります。
さて、江戸には大きい官許の芝居小屋が3つありました。
というわけで、100年以上延々と、毎正月、3つの劇場のために「曽我もの」が書かれました。
もちろん一度出したのと殆ど同じのを趣向を変えてうまく書き換えることが多かったのですが、それにしてもまあよく飽きもせず、と思いますよ。

あと、宝永年間のことですが、そう、あの富士山の宝永新山ができた大爆発がありました。五月のことでした。
この詳しいことは新井白石の「折炊く柴の記」で読めます。岩波文庫で出てます。
ほんとうに大きな被害でした。江戸の街も灰で埋まり、富士山周辺は何尺も灰が積もりました。壊滅的でした。復興したけど。
そのバクハツは富士山のすそ野で死んだ曾我兄弟の祟りだと信じた江戸のヒトビトは、
曾我兄弟の討ち入りがあった五月のお芝居にも「霊鎮めとして」「曽我祀り」をやり、曽我ものを出しました。まあホントに飽きもせず。

・「曽我もの」の内容、

「曽我もの」はもちろん「兄弟の敵討ち」のハナシですが、
これは当時の「敵討ちもの」のお芝居全体に言えることですが、「敵討ち」の場面はメインではありません。
そこに至るまでのモロモロの苦労が見せ場です。
「曽我」に並ぶ人気素材の「忠臣蔵」でもそうですが、「討ち入り」がハイライト場面になったのは戦後、映画が作られてからです。
歌舞伎では「討ち入りするぞ~」と心に秘めながらいろいろがんばるお侍さんたちの様子が見せ場なのです。

 =「敵討ち」と「曽我もの」について(ちょびっと余談)=
さらに言うと「敵討ち」は今の感覚で言う「復讐」とはかなり違います。
たとえば、子供が殺されても「敵討ち」はできません。
父親、兄、主君などの「家」の中心人物が不当に殺されたときのみ「敵討ち」は発生します。
目的は「復讐」ではなく、不当に殺されたものの無念を晴らすことです。孝とか悌とかの倫理観です。
そして殺したものを倒すことで後に残った年少の自分たちが一人前であることを証明して、家の存続を実現させるのです。
「家の存続」は一族郎党にとって死活問題です。「敵討ち」は、自らのアイデンティティーと周囲の関係者を守るための神聖な戦いです。
「愛するものを殺された、ムカつくから仕返しだあ」という現代的な価値観とはかなり開きがありますよ。

この「敵討ち」についての価値観はまた、鎌倉にはじまり、江戸に続く封建制度の倫理観と美意識の根幹部分と一致すると思います。
そして、この「敵討ち」制度の源流になったのが、「曽我兄弟の仇討ものがたり」なのです。
これが鎌倉幕府が出来た翌年のできごとだったこと、執政者である「源頼朝(みなもとの よりとも)」の公的な裁きによって事件に決着が付けられたことは
たいへん大きいポイントだと思います。

江戸のヒトビトにとって「曽我」は、ただの「がんばって悪い奴をやっつけた兄弟のものがたり」ではなく、
彼らの生きる封建社会の根元的な美意識の象徴であったと思います
(少なくともワタクシは封建的価値観を前近代的で野蛮だとは微塵も思いませんよ)。

鎌倉時代は、封建社会制度の創世記です。
江戸時代の意識では、鎌倉時代が「世界のはじまり」であり、平安以前は「神話の時代」だったと思います。
頼朝は江戸時代は「神」として信仰されていたのです。
「曾我兄弟」は、新しい秩序の象徴として生まれた若い、力強い、荒ぶる兄弟神だったと思います。
江戸のヒトビトは毎正月、その若い神々を劇場で見ることを喜んだのです。

以前、曽我ものの説明をした友人に「正月早々敵討ちなんて血なまぐさい」と言われたことがあるので、
ちょっと現代的なイメージを違うんだよということを説明しておきます。

・「曽我もの」のバリエーション
まあ、というわけで、「曽我もの」、とにかくたくさん作られました。
その殆どの脚本はが散逸しましたが、それでもものすごくたくさん残っています。
なのでバリエーションも豊富です。

○敵討ちまでのいろいろな冒険を描く
だいたい弟のやんちゃな曽我五郎が主人公です。市井の誰それに化けていたりします。
そして家の家宝の刀が紛失(ふんじつと読む)しているのを探したりしています。
代表的なのが「助六由縁江戸桜」です。あと所作(しょさ、踊りね)の「矢の根」や「草摺引」もここに入ります。
「外郎売」も入れていいと思います。
人気者の曽我五郎が派手な衣装で暴れるので、お芝居にしやすいのです。楽しいです。

○対面
敵討ちの前に兄弟、または兄弟のどっちかが、敵である「工藤祐経(くどう すけつね)」に会います。
工藤は「源頼朝(みなもとの よりとも)」の側近のエライ人です。周りもえらい大名に囲まれています。
そこにみすぼらしい(衣装はキレイですが、安い服という設定)の兄弟が登場します。
工藤は「あ、河津五郎の子だ」と気付き、ここで工藤が父親の河津三郎が殺されたときの様子を語るのがお約束です。
この部分の台詞は毎回決まっています。
で、だいたい富士の巻狩りの直前なので、工藤が「狩りが終わったら討たれてやろう」と言って、その場は何にも起こらずに幕、です。
代表的なのが「寿曽我対面」(ことぶき そがのたいめん)です。
「外郎売」も舞台構成はこっちです。

○世話場
今は殆ど出ません。人気ねえです。まあ「曽我もの」を通し上演で出すことも殆どないので出ないのはしかたありません。
「世話場」というのは庶民的な場面、転じて貧乏な場面、という意味です。
曾我兄弟の家来の「鬼王(おにおう)」が、自分も貧乏なのに兄弟を引き取って世話をして、いろいろ苦労する場面です。
妹を廓に売ったりします。
「主君のためにがんばる」のは美談ですが、今の感覚ですと「そこまでやるのか」とも思います。

「世話場」=貧乏な状態、というのは戦前くらいまで一般名詞だったのですが、
その表現の典型的な例証として「鬼王貧家」は昔は有名でした。

○討入り
一応この場面もあります。主に五月の曽我まつりに出ました。
富士のすそ野の工藤の仮屋に忍び込んで、獅子奮迅の大立ち回りです。
討入り前に死を覚悟している兄弟が別れを惜しむシーンもかっこいいです。
現行上演作品は「夜討曽我狩場曙(ようちそが かりばのあけぼの)」が有名です。チナミに作は河竹黙阿弥です。

○敷皮問答(しきかわ もんどう)
お兄さんの十郎は討ち死にします。五郎は捕らえられて罪人として頼朝の前に引き出されます。
しかし頼朝は父の敵を討った五郎に敬意をはらって、五郎の座っている下に毛皮を敷くことを許します。
下に毛皮を敷いて座っていいのは貴人だけなので、これは破格の扱いです。
頼朝は五郎のりっぱ様子に打たれて罪を許そうとしますが、五郎はそれを望まず、
工藤の息子のまだ幼少の「犬坊丸(いぬぼうまる)」に首を討たせてやります。
という様子を描いたものです。

○石段、その他
「曽我もの」を、歌舞伎の定番である「お家騒動狂言」の一部として上演するときに必要な場面です。
だいたい工藤の家にお家騒動が起きていて、ええほうの家臣と反乱派の家臣が密書や盗まれた家宝を奪い合っていろいろやります。
ええほうの家臣が↑の世話場で曾我兄弟を助けてくれたりもします。
「曽我が題材のお家騒動もの」が今通しで出ることはまず絶対ないですが、
絵面がキレイな「石段」や「だんまり」が所作仕立てで出たりするので、基本設定は押さえておくといいと思います。
「吉例寿曽我(きちれい ことぶき そが)」が今残っています。

○曾我兄弟とまったく関係ない
…けっこうあります。
タイトルに「曽我」が入ってるだけとか。
主人公が昔は武士、という設定で、チラっと出るお家騒動の筋に曽我がからむけど本筋とは関係ない、とか、
主人公の名前が曽我ものの登場人物から取られているだけ、とか、いろいろです。
ようするに「初春狂言」として出す必要上「曽我もの」じゃなきゃいけない。
なのでムリクリこじつけて「曽我もの」にしただけ、というものです。
内容おもしろくて当たればオールオッケイ。そのへんはフレキシブルに(フレキシブルすぎです)。
現行上演ではタイトルから「曽我」をはずしているものも多いです。

こんなかんじです。数百本も作られつづけた雰囲気が伝わるといいなと思います。

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1 コメント

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参考になりました (まっつん)
2018-01-19 22:56:33
はじめまして

今秋11月に初舞台で【雨の五郎】を踊ります。解説によって、少しでも曽我五郎を演じ踊る心積もりができたように思います。
ありがとうございます!!

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