交通科学博物館では閉館を前に保存車両の車内特別公開が行われていますが、今回は
80系電車
を見てみましょう。80系電車は1950年に東海道本線の客車列車を置き換えるために投入された日本初の長距離用電車です。長距離列車用であるため、2扉でボックスシートが並ぶという典型的な長距離列車らしい車内構成になっています。その時に採用された塗色が湘南色として親しまれることになりました。80系電車は鉄道史を変える重要な車両であるにもかかわらず、保存車は交通科学博物館のモハ80001とクハ86001の2両のみです。
クハ86001です。80系電車の1次車にあたります。2枚窓のいわゆる湘南形の2次車以降の保存車が1両いないのは残念です・・・。閉館を前にクハ86001の先頭部にさよなら交通科学博物館のHMが付いていました。
80系電車の車内です。長距離列車用なので、
ボックスシート
がずらりと並んでいます。ボックスシートの背ずり部分にモケットがありませんが、おそらく、登場時は資材難で省略ざるを得なかったのかもしれません・・・。緑色のモケットは湘南電車らしい感じですね・・・。
そこで、車内に入ってびっくりしたのは、ボックスシートのサイズが小さく、通路の幅が広く感じたことです。1950年代の日本人の体格が現代よりやや小さかったと聞いているのですが、それに合わせて設計されたのでしょうか・・・。そして、テーブルが無く、灰皿があったことも驚きました・・・。
ドアよりの座席が
横向き
になっています。ドアエンジンの関係なのか、通路側の混雑を緩和するためなのかどうかわかりませんが、一応座席が横向きになっています。運転台側は2人掛けで、それ以外は3人掛けになっています。
こちらは
網棚
です。網棚は布で編んでいました。私が見てきた113系では金属でしたが・・・。
こちらは
便所
です。長距離列車用がゆえに便所はもちろん付いていましたが、便所はデッキから入る形になっていました。153系や165系などでは便所を車端部に設置していますが、80系電車は車端部に扉を設け、これより内側に便所を設ける形だったんですね・・・。そして、知らせ灯も付いていました。
乗降扉です。扉自体はプレスで、窓が3つりました。資材難から小さな窓を3つ並べる形にしたのでしょうか・・・。
運転台
です。びっくりしたのは運転台そのものがすっきりとしていたことです。各種スイッチなどがコンパクトにまとめられていました。113系などでは後になって色んな機器を追加し、ややこしくなってきたような印象でした。とはいえ、長距離列車用にしてはなんかすっきりとしていすぎるような気がします・・・。
80系電車は2両とも公開していて、まずクハ86001から入り、モハ80001で出るという流れでした。人数を区切っての公開だったようですが、私が訪れた時は開館直後だったようで、フリー状態でした。
以上です。これまでに6回にわたって車内公開のレポートしましたが、ここで最後となります。
閉館を前に非公開となっている車両の車内を特別公開していましたが、交通科学博物館は貴重な車両が多数保存されているという事もあり、貴重な機会と見て2月から3月にかけて3回ほど足を運んできました。車内を見て、
・現役で走っていた当時、世間はどんな風潮・習慣があったのか?
・当時の設計者はどのような事を想定して設計していたのか?
・車内の雰囲気
などいろんな事を感じさせました。まさに百問は一見にしかずです。3回も足を運んでしまいましたが、得られたものはたくさんありました。交通科学博物館の方々、色々とありがとうございました。
閉館にあたってありがとうの装飾が各所でなされていました。そして、最後の訪問日には通常ガラス張りの室内で保存されている義経号が外に出され、間近で見る事が出来ました。アメリカンスタイルでかっこよく感じたものです・・・。
閉館にあたって大阪環状線を走る201系2編成に対して「ありがとう交通科学博物館」のHMを付けて走っていました。デザインは80系に取り付けていたものと全く同じです。
ありがとう交通科学博物館
以上です。
80系電車
を見てみましょう。80系電車は1950年に東海道本線の客車列車を置き換えるために投入された日本初の長距離用電車です。長距離列車用であるため、2扉でボックスシートが並ぶという典型的な長距離列車らしい車内構成になっています。その時に採用された塗色が湘南色として親しまれることになりました。80系電車は鉄道史を変える重要な車両であるにもかかわらず、保存車は交通科学博物館のモハ80001とクハ86001の2両のみです。
クハ86001です。80系電車の1次車にあたります。2枚窓のいわゆる湘南形の2次車以降の保存車が1両いないのは残念です・・・。閉館を前にクハ86001の先頭部にさよなら交通科学博物館のHMが付いていました。
80系電車の車内です。長距離列車用なので、
ボックスシート
がずらりと並んでいます。ボックスシートの背ずり部分にモケットがありませんが、おそらく、登場時は資材難で省略ざるを得なかったのかもしれません・・・。緑色のモケットは湘南電車らしい感じですね・・・。
そこで、車内に入ってびっくりしたのは、ボックスシートのサイズが小さく、通路の幅が広く感じたことです。1950年代の日本人の体格が現代よりやや小さかったと聞いているのですが、それに合わせて設計されたのでしょうか・・・。そして、テーブルが無く、灰皿があったことも驚きました・・・。
ドアよりの座席が
横向き
になっています。ドアエンジンの関係なのか、通路側の混雑を緩和するためなのかどうかわかりませんが、一応座席が横向きになっています。運転台側は2人掛けで、それ以外は3人掛けになっています。
こちらは
網棚
です。網棚は布で編んでいました。私が見てきた113系では金属でしたが・・・。
こちらは
便所
です。長距離列車用がゆえに便所はもちろん付いていましたが、便所はデッキから入る形になっていました。153系や165系などでは便所を車端部に設置していますが、80系電車は車端部に扉を設け、これより内側に便所を設ける形だったんですね・・・。そして、知らせ灯も付いていました。
乗降扉です。扉自体はプレスで、窓が3つりました。資材難から小さな窓を3つ並べる形にしたのでしょうか・・・。
運転台
です。びっくりしたのは運転台そのものがすっきりとしていたことです。各種スイッチなどがコンパクトにまとめられていました。113系などでは後になって色んな機器を追加し、ややこしくなってきたような印象でした。とはいえ、長距離列車用にしてはなんかすっきりとしていすぎるような気がします・・・。
80系電車は2両とも公開していて、まずクハ86001から入り、モハ80001で出るという流れでした。人数を区切っての公開だったようですが、私が訪れた時は開館直後だったようで、フリー状態でした。
以上です。これまでに6回にわたって車内公開のレポートしましたが、ここで最後となります。
閉館を前に非公開となっている車両の車内を特別公開していましたが、交通科学博物館は貴重な車両が多数保存されているという事もあり、貴重な機会と見て2月から3月にかけて3回ほど足を運んできました。車内を見て、
・現役で走っていた当時、世間はどんな風潮・習慣があったのか?
・当時の設計者はどのような事を想定して設計していたのか?
・車内の雰囲気
などいろんな事を感じさせました。まさに百問は一見にしかずです。3回も足を運んでしまいましたが、得られたものはたくさんありました。交通科学博物館の方々、色々とありがとうございました。
閉館にあたってありがとうの装飾が各所でなされていました。そして、最後の訪問日には通常ガラス張りの室内で保存されている義経号が外に出され、間近で見る事が出来ました。アメリカンスタイルでかっこよく感じたものです・・・。
閉館にあたって大阪環状線を走る201系2編成に対して「ありがとう交通科学博物館」のHMを付けて走っていました。デザインは80系に取り付けていたものと全く同じです。
ありがとう交通科学博物館
以上です。
オハ35、スハ42・43、モハ32・42・43・51・52・54…
以上のように多数、戦時中の統制下は別にして、背ずり布はあるのがデフォルトなんだが…?
コメントありがとうございます。
背ずりにモケットが無いのは三等車が故なんですね・・・。確かに60系客車はモケットがありませんでしたが、てっきり資材難だと思っておりました。よく考えてみれば、同時期に登場した普通列車用車両はみんなモケット無しでしたよね。
80系の前面の塗り分けが異なる点について、雑誌の80系特集で見かけました。色んなパターンが用意されていましたね。
梅小路にできる新鉄道博物館、どんな形になるのか楽しみなところです。
コメントありがとうございます。
確かに湘南窓は1両も保存されませんでしたね・・・。思ってみれば、国鉄末期で廃車になった車両で保存されたものってほとんどいませんでしたね・・・。でも、保存されている2両も一応国鉄末期に修復して保存しています(車内にその銘板あり)。
交通科学博物館の閉館――私も、一度訪れた事があります。
かなり前ですが――懐かしいですね。
ところで、80系の車内、椅子のモケットが一部にしか無いのは、資材難と言うよりも「電車の三等車だったから」だと思います。
鋼体化客車の60系と同じ思想ですね。
事実、同時期に製作されたスハ43系客車の場合は、“急行用”と言う事もあり、頭の部分までモケットが有りますから。
そもそも、電車が長距離運用に使われる事も無かった分、そうしなければ「理解」は得られなかったんだろう――と、思います。
事実、80系の初期車が準急で走ったと言う話は聞きませんし。
それにしても、時期によって先頭車両の塗り分けが違うのですが、実は、『急電』の名残なんだそうです。
『急電』専用として製造されたロットは、色こそ茶色の濃淡ですが、塗り分けも東京オリジナルとは違っていました。
東海道線の電化進展により、運用が重なる事を考慮して色は統一されたのですが、塗り分けは『急電』に合わされた――と言います。
果たして、京都鉄道博物館はどんな出で立ちになるのか…興味深いです。
長くなりましたが、それでは、またです。
確かに湘南窓は1両も残ってないですよね
飯田線末期119系置き換えと言えば
国鉄改革待ったなしの頃ですから
保存という余裕は無かったんでしょう
最初期が残っただけでも
良かったのかな…