昔はお盆になったら「海で泳いではいけないよ先祖に連れて行かれるよ」と言われたものですが今日も海辺はカラフルです。
私にとって戦争の記憶は焼夷弾で父が火傷をしたこと、爆撃の後逃げた家族が集まった中に姉がいなくてみんなで騒いでいたこと、防空壕に入っていたこと等ですが私が覚えているはずはなくそれらの記憶は家族の話やテレビの映像が断片的に記憶として継続されて私の中で記憶として残っているのだと思います。
私の一番小さいときの写真は漁船の前で座っている父に寄り添ってグレイのワンピースを着て立っている6才の姿から始まっています。そんな時代沢山の子供を育てた母はどんな気持ちでいたのだろうか。考えると一度も母に尋ねたことはなかった。母に戦時中どんな気持ちで日常を過ごしていたか話を聞くべきだったと残念です。
2度目の沖縄へ行ったときお世話になった女教師の方にその方のお母様のことは聞いたことがなかったので尋ねましたら初めてアメリカ軍の沖縄上陸の話をしてくれました。
彼女はアメリカ軍の上陸で浜辺から逃げるときお母さんが転んで子供達に先に逃げなさいと言ったそうです。翌朝砂浜に行ってみたら内蔵をえぐられてなくなっている母の姿にあまりにむごくて今まで話すことが出来なかったといいました。
テレビも新聞もこの日が近くなると戦争の報道でいっぱいです、爆撃や戦いのむごたらしい場面が何度も放映されますが戦時下の市民や兵士、抑留生活の日常はあまり伝えられませんが今、平和を満喫している私達には当時の生活は想像を超えるものだったことでしょう。
遠い悲しみ身近な悲しみそれらがない淡々とした日々があることを祈りたいと思います。
私にとって戦争の記憶は焼夷弾で父が火傷をしたこと、爆撃の後逃げた家族が集まった中に姉がいなくてみんなで騒いでいたこと、防空壕に入っていたこと等ですが私が覚えているはずはなくそれらの記憶は家族の話やテレビの映像が断片的に記憶として継続されて私の中で記憶として残っているのだと思います。
私の一番小さいときの写真は漁船の前で座っている父に寄り添ってグレイのワンピースを着て立っている6才の姿から始まっています。そんな時代沢山の子供を育てた母はどんな気持ちでいたのだろうか。考えると一度も母に尋ねたことはなかった。母に戦時中どんな気持ちで日常を過ごしていたか話を聞くべきだったと残念です。
2度目の沖縄へ行ったときお世話になった女教師の方にその方のお母様のことは聞いたことがなかったので尋ねましたら初めてアメリカ軍の沖縄上陸の話をしてくれました。
彼女はアメリカ軍の上陸で浜辺から逃げるときお母さんが転んで子供達に先に逃げなさいと言ったそうです。翌朝砂浜に行ってみたら内蔵をえぐられてなくなっている母の姿にあまりにむごくて今まで話すことが出来なかったといいました。
テレビも新聞もこの日が近くなると戦争の報道でいっぱいです、爆撃や戦いのむごたらしい場面が何度も放映されますが戦時下の市民や兵士、抑留生活の日常はあまり伝えられませんが今、平和を満喫している私達には当時の生活は想像を超えるものだったことでしょう。
遠い悲しみ身近な悲しみそれらがない淡々とした日々があることを祈りたいと思います。