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尊敬

へそ曲げて偏見メガネにコトバ映す


火曜日から雨という予報はあたるのか、それともずれるのか、自然と気象庁の勝負である。
江戸時代だったら、長老が雲の流れや湿度を感じて「あしたは、雨じゃな」とか、予報したんじゃないのかな。それで、ぴったんこカンカンとなると、尊敬される。
経験が尊敬につながる時代だったんじゃないかな。いまは、お父さんが子どもに「明日の天気は、雲の流れを見れば・・・」なんて言っている途中で、スマホを取り出し調べちゃうでしょう。子どもが父親や年配者を尊敬しなくなったのは、進歩も原因しているんじゃないか。
知識(経験から見出されたものも)は脳にストックするのではなく、外付けハードディスクから呼び出せば出てくるのだ。

いまの子どもたちが父親になる頃には、もっとすごいものが登場してきているだろう(スーパーコンピューターをポケットに入れて持ち歩いているかも)。そうなると、尊敬という概念は木っ端微塵に消え去るかもしれない。
家族関係がどうたらこうたらなんて化石話になって、親子という概念すら変化していくんじゃないのか。なかなか興味深い。「尊敬」が命をつないできた歴史は、これから先へとは伸びていかないようだ。


※見えるかな? カマキリたちが生まれたぁ~。生き延びろよ~。

よく口にするコトバも軽くなっているかも。感動が命を守ってくれることはないし、勇気をもらったところで、その勇気を使える勇気を持っている人は少ない。元気をいただきましたというけれど、その元気の消費期限を決めるのはじぶんの努力である。天邪鬼は、それらのコトバを聞く度に首をかしげてしまう、「ねぇ、ねぇ、もらったものをどう扱うの?」と。
最近、「尊敬」というコトバに思いを巡らせている。





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