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鎌倉八百ヶ谷戸

鎌倉の街はそのものが環境遺跡

善財 一 写真集

常盤砦跡

2020-04-17 19:14:00 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸
谷戸の写真を撮っておこうと考えたのは、20年以上前になるだろうか。
撮影をもくろんでいたとある場所が、撮影に出かけた時に宅地に変わってしまっていた。
そんなことは、どこにでもあるさとは言うものの、納得もできないし悔しい。
人の手の入っていない谷戸は草木が繁茂して撮影もできない。
どうにかして木々の隙間を見つけて撮影する。
夏場の木々が茂っている状況ではわかりにくいため、多くは冬場の木々の葉が落ちた時期に撮影する。
冬を待つ。
その撮影できない半年の間に宅地化してしまうことがある。
 

このブログで紹介している写真はすべて過去のもの。

最近(2020年3月)撮ったのはこの常盤砦跡。

下の写真は、昨年撮影した常盤砦跡。

この常盤砦跡も、昨年の大雨のためか、あるいは宅地化されるのか、今年に入って一部が綺麗に整備されており、何やら動きがありそうだ。

大仏坂切り通し

常盤砦がいつ頃のものか良くわからないのだが、大仏坂切り通しの西の入り口、北条政村邸などとの関係から鎌倉防御の要の一つであったと考えてよいだろう。

 


殿入

2020-04-16 21:31:26 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸
円久寺のある谷戸が殿入
 
夏場は植物が繁茂して入ることができない。
 
冬でも下草が刈り取ってないと藪と細竹が茂っていてやぐらまで到達できないだろう。
 
ひな壇状に土地が形成されているのだが、多量の水が湧出しており、いわば湿地帯。水路を効果的に設ければ、もう少し観察も容易になろうかと思う。
 
写真の左奥にやぐらがあるのだが現在は細竹が茂っていて眺めることもできない(2020年3月下旬)。

北条政村邸

2020-04-15 21:28:38 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸
 
たちんだい、一向堂、殿入、常盤などの地名が残る御所ノ内には、北条政村、同義政の居館があったとされる。東の朝比奈に対して、この辺りも比較的宅地開発が進んでおらず、谷戸が分かり易い状態で遺されている。
長谷隧道を抜けた最初の谷戸。谷戸の口は比較的狭いが、かなり奥まで続いている。おそらく佐助稲荷の裏手から尾根に通じる道があったのだろう。
 
 鎌倉の西側の守りは、北条政村邸のあった御所ノ内が知られているが、いくつもの谷戸が入り組んでいる桔梗山と一向堂のある仲ノ坂、笛田の常盤砦のあった辺り、一帯が宅地化されてしまった梶原辺りが要であったようだ。中でもタチンダイと呼ばれている平坦地は、一度は訪れておきたいところだ。街道から谷戸の奥に向かって百メートルほど進むと数メートルほど一段高くなり、さらに奥へ五十メートルほどの広さがある谷戸の空域で、最奥部には、開削によって垂直に切り立つ崖面に設けられたヤグラが遺され、その背後には桔梗山が迫っており、現在では昇るための道や石段などは見つけられないが、当時は桔梗山へと続く石段が設けられていたと思われる。
この平地こそ、開削によって造り出された谷戸の典型。階段状に平地を構成し、山際を掘り込んで谷戸の面積を広く取り、しかも平地の傾きをなくしている。それ故、最奥部は切り立つような崖面となる。背後の山から伸びる尾根は谷戸を抱き抱えるような城壁となっており、城壁の所々に平場と呼ばれる小さな平地が築かれている。確かに守りの要素が濃密だ。
因みに、現在は街道に面した辺りからだらだら道が、谷戸を抱きかかえるような尾根に沿って設けられており、踏み分け道程度の尾根道が桔梗山へと、また山中を経て佐助稲荷や銭洗弁天へと続いている。
 現在は隧道によって藤沢方面から鎌倉駅まで道が続いているが、当時は政村邸の辺りで行きどまっており、敵軍がたとえこの街道を攻め込んだとしても、背後から挟まれれば身動きが出来なくなる恐れがある。いわば袋小路である。
ただし、山中に分け入れば、南には一向堂を経て大仏坂に抜けられる道があり、北には佐助稲荷や源氏山に通じる尾根道にも出られる。こうした尾根筋を利用した交通網は、入り組んだ山襞を持つ地域に特徴的なものと言えよう。
 
たちんだいの入口
 
たちんだいのやぐらが印象的。本来やぐらには木戸が設けられており、このようには見えなかったはずである。
 
たちんだいの最奥からの眺め
 
 

朝比奈切り通しの鎌倉側

2020-04-13 18:50:07 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸
朝比奈の切り通しは産業道路として重要であったため、攻撃されやすいという欠点もあったと思われる。それが故、侵入者を迎撃するための工夫があった。
熊野神社に通じる山道は、朝比奈の切り通し入り口辺りを見下ろせる状態にある。その他、朝比奈の切り通しに沿って足下を攻撃できるような平場や屋敷が設けられていたと思われる地形が遺されている。
 
朝比奈切り通しの鎌倉側。この辺りに上総廣常の屋敷があった。
切り通しを見下ろせる地形とされている。
 
 

朝比奈切り通しの機能

2020-04-13 08:43:58 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸
朝比奈辺りをうろついている
 
この下に朝比奈の切り通しがある
 
六浦は、経済的にも、あるいは海上を経て房総と結ぶという戦略の上において重要な地域であったが故、六浦から鎌倉に至る朝夷奈切通しの、守りのための機能も充分に考慮されていたと思われる。
実際に朝夷奈切通しを前にすると、なぜここまで深く切り込まれた道路にしなければならなかったのか、疑問が沸き上がる。幾度かの開削工事が行われたとしてもだ。朝夷奈切通しの峠に当たるところでも、また六浦側の入口辺りでも十メートルほどの断崖が続く。そして断崖の上部には平場が設けられており、切通しを進むであろう人々を見下ろす位置が確保されているのである。
いざ合戦となり、攻め来る軍勢を迎え撃つことを想定した場合、敵の頭上からの攻撃は頗る効果的だ。四百メートルほどの間に数か所ほどの迎撃可能な平場が存在している。さらに、切通しの所々居館が設けられていたと思われる開削された土地が存在する。
また、上総廣常の館があったとみられている朝夷奈切通しの鎌倉側の出口辺りも、切通しの上から見下ろすことが可能な構造とされている。切通しは鎌倉の入り口としての機能を持つ産業道路だが、一方で、鎌倉の出入りを厳しく取り締まることも想定されていたのであろう。
拡張工事がされずに現在でも古道としての佇まいを見せている名越、大仏坂、化粧坂の切通しは、路面の幅を極端に狭くし、階段部を設けて容易には通行できないような工夫をしていた。外敵の侵入を拒む通路であり、もちろん迎撃も想定した入り口に他ならない。
朝夷奈切通しは、産業道路としての機能を求めざるを得ないが故、他の切通しに比較して道幅も広く、馬や荷車の通行も比較的容易であったと思われる。この朝夷奈切通しは、鎌倉勢にとっては諸刃の剣でもあったわけで、そのために守りの要素も充分に備えていたと思われるのである。
 
 
この下も切り通しの隘路
 
 
朝比奈切り通しの途中
切り通しのすぐ脇に平場などがある
 
熊野神社