岐阜 柳ケ瀬お化け屋敷「恐怖の細道」公式ブログ

山口敏太郎プロデュース!岐阜市・柳ケ瀬商店街にて開催されるお化け屋敷「恐怖の細道」の公式ブログです。

【連載】やながもんの唄・第五章「一人飲みの夜」

2015-07-31 23:45:01 | やながもん
第五章 一人飲みの夜



2013年の岐阜 柳ヶ瀬お化け屋敷 恐怖の細道『あの夏の忘れ物』は、最終的に2万2千人を越える動員を果たし、収益も上がり成功の内に幕を閉じた。

僕は、この「恐怖の細道」という『女』に悩み苦しみ、随分と酷い目にもあったが、彼女が僕にくれた2年に渡る夏の体験は誰も経験した事が無い素晴らしいものだった。

間違いなく僕は彼女を愛している


2012年・2013年の経験と確かな手ごたえを感じた僕は更なる夢を描いた。

柳ヶ瀬の夏の途絶えることの無い風物詩になりたい!


その時点で僕はすでに49歳になっていた・・・もう若くない、「やながもん」の仲間たちも同様だ。事業の継続性、いや永続性を考えて主催をより「公」にシフトしていくべきだと考えた。「やながもん」は創業の誇りを持って後方支援に廻り、文字通りバックアップする形を取り、主催を柳ケ瀬商店街に移す。いつか美川憲一さんに言われた「10年続けないとダメよ、10年続いてやっと本物なんだから」という言葉。その最適解が「公」へのシフトだった。

僕は先方の迷惑を承知の上で柳商連(柳ヶ瀬商店業連合)にお願いした。
「私たちのお化け屋敷を引き継いで下さい」と。
果たして、僕の無理なお願いを柳商連は承諾してくれた!・・・感激した!
収益金も全部渡すことにした、感謝状までいただいた、うれしかった・・・
何よりも僕が2年間背負った実行委員長という重責から開放されたことが、そして2013年~2014年へお化け屋敷のタスキが繋がった事が!

安堵と達成感に満ちた僕は2014年の夏に一人の市民として3年目のより公にシフトされた形で開催されているお化け屋敷に参加している自分を思い浮かべていた・・・幸せだ。

しかし結果として2014年のお化け屋敷は開催されなかった。


・・・僕は本当は分かっていた。薄ボンヤリとだけど知っていたのだ・・・2014年が休催になる事を。三年目のシフトが時期尚早である事を。何より「彼女」は僕じゃなきゃ無理だって知っていたんだ・・・
『運命』――上手く言えないけれど、5歳の時に迷子になって途方に暮れた柳ケ瀬、中二の時に都市伝説の彼女と出会ったこと、45歳の時に山口 敏太郎さんと出会い「やながもん」たちと出会ったこと・・・運命など信じてはいない僕だけど、これまでの道のりは「必然」と言えるものだった。僕は何かに導かれるようにココまで来たんだ・・・
このブログの冒頭に、僕はこう書いた。『何かに突き飛ばされるように前に出た』って。

幼少の時にみた日本一の賑わいも、ゴジラもポルノ映画館のポスターも柳ヶ瀬を舞台にした青春の思い出も、大人になって見た残念な柳ヶ瀬も真鶴でみた月も・・・・
僕を「彼女」に会わせる為に綿密に仕組まれた「運命の罠」だってことを。
僕じゃなきゃ無理だって知っていたんだ・・・・・

本当はあまりにも重い「彼女」から、自由になりたかっただけだったんだ。
僕はズルい男だ。

柳商連には悪いことをした。
2013年の閉幕時の興奮から時が過ぎ、熱が引き現実が顕になって行く。彼らは柳ヶ瀬という個人商店主を主とする商店街のリーダーであり、その人たちの為に複雑な意見調整をする役、一年を通して様々なイベントを企画していく役、他にも僕が知らない沢山の仕事をこなしている。そこに加えて、「恐怖の細道」の運営で夏を忙殺される、いや企画から整理までを含めると春から秋まで掛かる事業を平行してこなす・・・「やっぱり無理だ」そんな意見が出ることは、無理からぬ事だった。

年が変わり、徐々に休催が濃厚になっていく。自然と仲良かった柳ヶ瀬の仲間たちともギスギスしたやり取りが多くなっていく・・・「やるって言ったやんか?」僕のそんな言葉がどれ程彼らを苦しめただろうか。本当にゴメン、悪いのはズルイ僕なのに・・・
でも「僕は彼女を愛していたんだ、彼女のいない夏なんて考えられないんだ!」

春が過ぎていこうとしている5月だったか・・・
2014年のお化け屋敷の開催を僕は諦めた。

僕は辛い時、苦しい時、何故か一人になろうとする、この時の心情を歌った歌が
「一人飲みの夜」だ・・・

the G Street Band×野々田万照 「一人飲みの夜」


次章完結6章 『夕暮れの帰り道』

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