岐阜 柳ケ瀬お化け屋敷「恐怖の細道」公式ブログ

山口敏太郎プロデュース!岐阜市・柳ケ瀬商店街にて開催されるお化け屋敷「恐怖の細道」の公式ブログです。

【連載】やながもんの唄・第四章「あの夏の忘れもの(上)」

2015-07-22 11:17:14 | やながもん
第四章 あの夏の忘れもの(上)


2012年の夏が終わった。
当初8000人来てくれれば・・・と思っていた来場者数は、最終的に18000人を数えた。
僕たちのお化け屋敷は連日テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット等に取り上げて戴き『柳ケ瀬』という言葉は日本中を飛び交った。

当時の柳ケ瀬商店業連合組合理事長だった市川さんからは、私たちへの感謝の言葉と共に「柳ケ瀬について、この10年間より、この夏だけのほうがずっと沢山の報道をしていただいた。」という言葉をいただいた。

望外の大成功!!


開幕前、僕の目論見は二つあった。一つは柳ケ瀬を大いに賑わすこと。もう一つはお化け屋敷で得た収益を寄付すること。前者については間違いなくうまくいったと言える!
・・・だが、収益については・・・ダクダクと惜しみなく注ぎ込んだ人海戦術による人件費の膨張、躊躇ない物品の購入、採算的には悉く失敗に終わった様々なイベント・・・蓋を閉じてみれば赤字であった、あんなに賑わったのに、だ。

遊技業さんからの100万円を使い果たし、息子の学資保険も随分と目減りしていた・・・
あんなに賑わったのに。金銭面のこともそうだが、望外の成功に僕が払った代償はあまりにも重かったのだ。

燃え尽きた・・・・僕は燃え尽きてしまった


よくスポーツの後などに爽やかな達成感を含む言葉として使用される表現だが、そんなものでは決して無い、心が燃料切れになった状態だった。

その夏のお化け屋敷の残務を終わらせてからずっと、ドンヨリと薄ら黒い重い膜が僕の心身を覆ってしまった。誰にも会いたくなかったし、生活は荒れてしまい自ずと体調も優れず、日に何度も誰も知り合いのいない処へ行きたいと思うようになっていた。日に何度も『死』について考えてしまっている僕がいた・・・

僕は栄光から一番遠い処にいた。
心に闇を抱えていた僕を、周囲が「成功者」「ヒット企画の生みの親」として扱ってくれることとのギャップが、余計に心を心を荒ませた。

そして、僕は決心した。
『もう二度とお化け屋敷なんかやらない!』と・・・
そう思うことで少しだけ心が楽になった気がした、そんな気がした。

街で「来年どうするの?」「また、頼むよ~」とか声を掛けられる度に「は~い、ありがとうございま~す」とか答えるのだけれど、心のなかでは『二度とやるかボケ』とか『お前がやってみろ!』とか思っていた。

あ~嫌になる!書きながら自己嫌悪がヒドイ!思い返せば本当に嫌な男だ。
あのころの僕は欝だったのかも知れない・・・




秋に終わった『恐怖の細道』も秋が過ぎ、冬が過ぎ、春が来た・・・こんな鬱病みたいな男にも春がくるのだ、僕は相変わらずの状態で、市民の皆さんや仲間からの「どうするの?」という問いかけに「うん、やろうかなぁ・・」とか「やりません!」とか揺れる気持ちをそのままに曖昧な返事を繰り返していた。本当に今思えば恥ずかしくも申し訳ない。

叩かれて当然の僕だったが、漏れ伝わってきた沢山の陰口の中にスルーできないものがあった。
「ほれみろ、アイツは面白半分でやっただけで変なヤツが変な事をしただけやわ、もうやらへん、やれへん」

・・・ちょっと待って、ちょっと待ってお兄さん!
面白半分でやった?=ふ~む、、、そりゃそうかも知れん。
変なヤツが変な事を=そりゃそう思うやろうなぁ。
もうやらへん、やれへん?・・・・・ダァ~!!うるさいわあ!!お前が決めるなぁ!!

僕の中の岐阜の沢田研二と言われた(?)負けじ魂に火がついた。
あの時垣間見た柳ヶ瀬に灯った光!中心街区の孤独な子どもたちの笑顔!こんな情けないリーダーを慕ってくれている「やながもん」の仲間たちの切なくも優しい言葉!

沢山の待っていてくれる人たちの為、灯りかけた柳ヶ瀬の光の為!2013年の3月の終わり頃だったか4月だったか?とにかく桜の花が咲いていた春の日に僕は決めた。
再び『岐阜 柳ヶ瀬お化け屋敷 恐怖の細道』開催する事を。

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