「金シャチはたびたび地上に降りて見世物になりつづけている!」 67へえ!
「名古屋と金シャチ」(井上章一/NTT出版)より
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1874年、雌シャチがウィーン万博の帰りに、海に沈んだらしい!という噂が名古屋を駆け巡るそのころ、雄シャチは名古屋の勧業博覧会(東本願寺 名古屋別院。「東別院」のことかな?)に出品されておりました。
これはいやがうえにも、名古屋人の「金シャチへの想ひ」を増幅させたのではないか、ということですね。雄を見ながら「ああ、片割れの雌はいまごろ・・・」と、ついつい思いを馳せたりしたんじゃないかということです。
結果としましては、雌シャチは沈んでいなかったんです。重すぎて、港に残されたままだったんですね。別便で後日、ちゃんと到着。
しかしまあ、当時は通信網も整っていないから、「沈んだけど引き上げられたらしい」「いやいややっぱり沈んだらしい」とか、名古屋では不正確なうわさが流れたようです。こういう噂が流れる背景には、名古屋人の、シャチに対する情感、感情移入があったんじゃないか、と井上氏は書いています。
1878年、ついに金シャチは宮内省から名古屋に変換されました。
これは、名古屋の資産家の有志が、「名古屋城の復旧費用は自分たちが出すから、頼むからシャチを返してくれ」っていう嘆願の結果だったらしい。
やっと帰ってきた金シャチ。
金シャチはそれまでずーーーーっと見世物として旅をしていて、その事実は名古屋人にひとつ教えました。ずばり「金シャチって、見世物として価値があるんだ!」
以来、名古屋ではシンボル・マークだのなんだの、名古屋をアピールする場では何かとシャチを持ち出すようになりましたとさ。
その後、名古屋城は戦火で焼失。金シャチも炎のなかに失われました。
で、市民の声(&寄付金)に押されて再建のはこびとなり、そのとき金シャチの金加工を請け負ったのは大阪造幣局。(原型は大谷相撲■鋳所という、神社仏閣への奉納品をてがける由緒ある会社)
できあがった金シャチは、各府県の警察に護送されながら名古屋に到着するや、市内を大パレード。熱田神宮でおはらいを受けます。行列には市民二十万人が集まったらしい。金シャチ2世、めでたく即位です。
それからしばらくは、金シャチは城のてっぺんに鎮座ましまして、地上に降ろすことはしなかったんだけど。その禁をふたたび解いてまた見世物にしちゃったvのは1984年。
名古屋城再建25周年のイベント、「名古屋城博覧会」。
これがまたけっこう盛況だったらしく、しかも名城博で金シャチはますます人気が出て、グッズなんかの売れ行きが良くなったと。
「金シャチってすごいなー(集客力あるなー)」と、みんな思ったんですね、たぶん。
でも、そうたびたび降ろしてはありがたみがありません。
つぎに降ろされたのは・・・そうです、記憶もあたらしい2005年。愛・地球博にあわせて開催された「新世紀・名古屋城博覧会」。 (超盛況だったよね、このイベント)
しかも金シャチ、万博の開会式にも二体そろって出席しましたよね。(地元新聞じゃずいぶん話題だった。道中パレードもしたんだっけ??)
松原市長いわく「ウィーンのときのように、一方だけ国際的な脚光を浴びては、一方が気の毒」。
・・・愛されてるようねえ、金シャチ!てゆーかもはや、擬人化して感情移入の対象になってますね、しっかりばっちり。
新世紀名城博覧会は、金シャチをみがく「市民金シャチ磨き隊」を募集、展示にしても、見るだけじゃなくなんと触れる!ということで、金シャチの「おもちゃ」・・・いじられキャラ扱いはますます進行したそうな。
まあ、そんなわけでね。
単に金色だからじゃなくてね、金シャチはその数奇な運命(?)をもって、名古屋人に愛され、親しまれるようになった(らしい)のよ。めでたし、めでたし。
金シャチシリーズ記事はあと2本つづきます。(クドい!長い!)