ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

嘆いても始まらないが、どうしたらいいんですか?と問われても(20210324)

2021年03月24日 | 考え直すために

 先日の私の「沖縄は戦場だったし、今でも戦場に繋がっている」の最後に、どうしたらいいんですか?と問われた。私は「ご自身で考えて下さい」と言うしかない。沖縄と向き合うつもりがあれば、向き合えば良いし、そのための向き合い方をお伝えします。またひとり一人にそれぞれのこだわりがあり、自分の身の回りから考えるべしなのだ。その際の沖縄は、あなたの鏡にもなるはずだ。

 何故こうも前に進まないのだろう。しかし嘆いても始まらない。ひとり一人が自分流を磨くしかない。今沖縄戦の遺骨が石灰岩の中に埋れたまま新基地建設に使われそうだとなって、各方面からリアクションが起きつつある。沖縄の自民党もこうした動きに同調せざるをえなくなってきた。金権にばかり目を向けていたら、お先祖様から恨まれますよ。

 こうしたウチナー的な広がりは歓迎すべきだが、他方で危うさもある。ぎりぎりの瀬戸際で過去と現在を繋ぎ、現在と近未来をつなげるのか。また、平和と言っても、武力による平和を歓迎していいのか否か。安倍元首相の「積極的平和主義」は、この路線だ。

 今問われていることは、「平和」という畠を耕すことだろう。化学肥料と農薬(武器・弾薬)付けでない自然・有機農業ができるのか。

 私はこの四半世紀、自衛隊・米軍追っかけをやってきたが、このままではどうにもならない。その前提としてどういうことが「平和」なのかを考えなければ、権力の口車に乗せられてしまう。そんなわけで今考え始めていることがある。

 私の原点は、自然との共存だ。近代社会は、ひたすら自然との関係を断ち切ってきた。切って切って奪い取ってきた。気候変動がどうだとかの以前の話しだろう。しかし有機農業だって、国家・ナショナリズムの枠を突破できなければ、ファシズムの温床になりかねず、難しい。

 ここは素直にいったらどうか。若かりし頃の私は、鳥類研究者の道を考えた。しかし理系がダメだった私には叶わぬ夢だった。そもそもあの時代(1960年代後半から70年代前半)、野鳥が好きな人間の多くも高度成長の金権に飲み込まれていたようだ。私たち若者が叫んでもまともに聴いてくれる人は少数派。当時「野鳥を殺せ!」と開発に走り、エキサイトしていた農漁民に対峙した人はごく少数だった。インチキアセスメントに自己満足していればマシだった。

 21世紀に入った今もたいしてかわっていないようだ。沖縄は珊瑚礁の海ということだが、イメージが先行し、実態とかけ離れている。レジャーで壊すな。せめて、遊ぶのみならず、自然から学ぼう。ポイ捨てなど言語道断。これは一例だが、辺野古(琉球諸島)には白いクロサギが居る。目立つし、サンゴ礁の浜辺の自然環境の指標になる鳥だ。私はこれを調査研究してみたい。生態と行動。とうていひとりではできないし、自然への関心を喚起する意味で、ひとつクロサギへのアプローチを形にしたい。具体的なことから自然への関心も高まるだろう。

 好きなものを素材にしてパワーポイントをつくれば、一石二鳥だ。いいや、おとしたりころしたりしてはいかん。ことわざの歴史的制約を考えないとダメだ。



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