2021年8月3日、私は、「私たちが止めるしかない東京オリ・パラ」をみた。医師の青木正美さんが、「こうなっては、仮設・大規模施設を造るしかない」と。「それにしても日本国憲法をみれば、憲法第13条や25条がある中で、なぜこれらが起動していないのだ。法的にどうなっているのだ?!」と怒っていた。当然の怒りが弁護士であり、社民党党首の福島瑞穂に向けられた。瑞穂さん、答えに窮していた。まったくと私も思ってしまった。
そうです。日本国憲法の第3章が「国民の権利及び義務」で、第11条が「基本的人権の享有と本質」であり、最重要な条項だ。「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことの出来ない永久の権利」なのだ。第13条が「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」であって、第25条「生存権、国の生存権補償義務」が規定されている。だとすると、「中等症以下自宅待機」なる方針は、憲法違反に当たる。当然の読み込みだ。
個人の尊重、生命、自由及び幸福追求に対する権利として、適正な医療・介護を受けることは当然だ。こうして人権擁護には制度的な保障を受けられなければならない。
しかし瑞穂さんが躊躇したように、お寒くなってきたのがこの国の実態だ。そもそも戦後の憲法体制下でも怪しかった。このことについては、私は1975年から83年生活保護担当ワーカーだったから身にしみている。「生活保護適正化」で国(厚生省)がぎゅうぎゅうに締め付けてきた。ワーカーが個人の尊重を示そうと思えば、打ち切り打ち切りで、大変だった。80年代に導入された介護保険などは自己責任が柱となっている。こうして社会保障の体型が覆されていったのだ。
25条が掲げていた社会福祉、社会保障、公衆衛生の壁が崩されていった。私が社会福祉の現場から外されたのは、1983年3月だった。それから38年の今。
青木さんの怒りは当然だと私は思う。個人は人権の擁護を申し立てる。これに答える制度保障がなければ、ならないはずだ。これがないから緊急時の特例の発令もできない。しなくていいと開き直る政府。
こうしたギャップに自覚的に答えるべき社会福祉、社会保障、公衆衛生の従事者、関連団体の人々、各級の政治家たち。
どう答えるのだろうか。コロナ禍が浮き彫りにした、すかすかになっている社会福祉、社会保障、公衆衛生の現状を考えるほかない。ベッド数の削減が現在進行形だというのもこうした動きとピタッと重なっている。この社会の病は深いと言うべきだろう。
私たちは、少なくても短期的なスパンで考えた緊急対応と、中長期的な再編を同時に考えなければならないはずだ。政権交代論も同様に、2つのスパンで考えるべきだろう。