おはようございます。本日は2025年4月10日(木)曇り
最近特に気になっていることがある。他人発のYouTubeなどをみていると、「神降臨」の類いの言葉がやたらと目に付く。私は無信仰なので(キリスト者の友は少なくないが)、彼等彼女らが「神」ということばに何を託しているのか、思うところを言わせてもらいたい。
人が特定の誰かを「神」と崇めるのは、どうみても健康な見方ではない。確かに経歴や実績から見て、凄い人はいるだろう。しかしそれとこれは違う。個性を称するために、「神」であるかのような呼び方をするのは、崇める上位の人と、蔑む下位の人を区分する差別の構造とつながってしまう。
現実において人が何かを唱えたところで、奇跡は起きない。奇跡頼みの政治はありえないし、いらない。人が本気になって○○に取り組んだり、政治を変えるしかないのだ。人と人がつながりえて、初めて、環が生まれ、変革の芽がうまれるかもしれない。
「神」に期待するなかれ。誰かを「神」であるかのように煽るなかれ。要は私たちひとりひとりが変わらなければ、先をみることはできないのだ。
私は自然を視て励まされることはあるが、その先を見定め何をなすべきかを考えるのは私自身だ。「特別な存在」であるかのように現れる存在を私は疑っている。
吟味して吟味して納得すれば、個人としては良いだろう。だが、そうした価値観を無差別に振りまかないでもらいたい。私たちは、地に足が着いた歩みをしていく意外にないのだ。妙な期待は、裏切られたときに、反動が大きくなってしまうだろう。物事に、人に、まっすぐに向けなくなってしまう。