昨夜、カレーを作っていたら、突然、警告音が鳴った。慌てて火を消したが、焦げていなかった。どうも電池切れの警告音。カレーのジャガイモなどは、ほどよい柔らかさになっていて、ほっとした。
一昨日から、「今更ですが、文学が読みたい」を書いていた。過去の整理から(これ自体怪しい物だが)、今後を見通しながら、どう読むかを書きだしたものの、力が尽きた。ざっくりした整理でも、整理は整理だ。政治も文学も、歴史的な整理抜きに考えると、意味を取り違えてしまうことを自覚した。それから、生き抜く中から新たな視野が開けることも確認できた。逆に言えば、生き抜けなかった人たちの悔しさを、私はもっと覚えなければいけないということだろう。
8月6日も9日も大勢の人たちの生きる営みは、無慈悲に断ち切られたのだ。戦争ってそういうものだ。人々は予告なく、押しつぶされる。
戦争の当事者はエゴの塊。「俺が勝つ」ことしか考えていない。俺が勝つためにマイナスになりそうな情報を一切合切隠す。塗りつぶす。何処の国の「俺」も似たりよったりだ。時代が変わってもそう。同じだ。より緻密に管理するぐらいの違いしかない。だから「俺」(権力者)はあのときの失敗を総括し、もっと上手に立ち回る。市民はぼーっとしているから、欺される。
日本は革命経験がない。市民革命の経験が無いことは、致命的だ。これは王様の首を撥ねたフランスの事例をいっているのではない。ただ誰であれ、悪さしかしない奴らを退場させる権利をもっていることを確認したことがある歴史と、ない歴史の断絶は余りにも大きい。ないから再び欺される。それが今の日本の状況だ。
安倍晋三は広島平和記念式典に行き、適当なことを言って、ムジャムジャとできるのだ。長崎の平和記念式典に行って、またできるのだ。何十年もこう繰り返してきた。日本の平和運動など甘っちょろいものだ。
原爆を落とされながら、原発を日本列島中に広げた日本、核安保体制に依存しながら「非核3原則」を持てあそぶ日本。平時は点線でしか結ばれていないから平気。しかし平気の背後に兵器があることを忘れている。実線で結ばれた瞬間、有事となる。実線=実戦になるのだ。この瞬間に私たちの生は奪われていく。或いは奪っていく。
これは言葉遊びではない。軍事の真実。政治家はウソをつけばつくほど格が上がっていく。政治家も官僚も、学者や、マスコミ・ジャーナリストも、大概こうなってしまった。点線の外側を歩いていれば安泰。しかし実線を見ようとしない奴は偽物だ。
このことは沖縄に置いてすら怪しくなっている。基地とはStanding Force なのだ。臨戦態勢にあるものだ。だから他人の迷惑顧みず、平気で夜間訓練をやったり夜間降下訓練すら街中でやる。これが沖縄だ。奴らに「迷惑」という概念はないだろう。存在じたいが「迷惑」なのだから。
一部の文学は案外この実線を見る生き方に通じる物があるのかも知れない。文学一般にはないけれど。ジャーナリストは観察者だが、人々が生きるための観察者なのだ。私たちが生きるための表現を追求しよう。どなた様も。そうできれば、政治も文学も、お互いを補え合える。無論フォトジャーナリストも。