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レーニンの“永遠の恋人”イネッサ・アルマンド

2024年10月29日 03時21分05秒 | 歴史

<以下の文を復刻します>

イネッサ・アルマンド

20世紀最大の革命家レーニンの恋人について語りたい。といっても、私はその人、イネッサ・アルマンドのことをよく知らない。よく知らないくせに書くとは不謹慎この上ないのだが、どうしても書きたいので始めにお許しを願いたい。それほど、レーニンの“永遠の恋人”に関心があるのだ。
レーニンは亡命中の1909年にイネッサと知り合ったそうだが、それが事実なら当時 彼は39歳、彼女は35歳ぐらいの年齢だった。イネッサはすでに結婚し5人の子持ちだったが、政治や社会活動に目覚めボリシェビキの党員になっていた。やがてレーニンと親交を結び、その交友は彼女が死ぬ1920年まで続くことになる。写真を見る限り、イネッサは知的でとても美しい女性という印象を受ける。多分、そうだったのだろう。レーニンは彼女との間に、膨大な量の手紙のやり取りを交わしたという。
興味をひくのはレーニン夫人のクルプスカヤとの関係だが、レーニン夫妻もイネッサも「分をわきまえた珍しい三角関係」だったそうだ。ということは、精神的、知的な結び付きだったということで、肉体的関係はほとんど考えられない。しかし、女性の心理は微妙だから、クルプスカヤが複雑な気持を抱いたとしても不思議ではない。ただし、彼女は夫とは“革命の同志”であり、糟糠の妻にして賢夫人だったことも間違いない。これ以上は、3人の関係をとやかく言うのはやめよう。

1917年のロシア革命で、レーニンのボリシェビキは権力を掌握した。それ以降、イネッサ・アルマンドの活躍は目覚しく、いろいろな役職と任務に就いている。それを詳しく述べる時間はないが、彼女は相当な激務に追われたに違いない。その間、レーニンは新生ソ連の人民委員会議議長、つまり首相だったからもちろん忙しかったが、イネッサのことはずっと気にかけていたようだ。前にも言った、膨大な量の手紙のやり取りがその証左である。
ところが、イネッサは激務でついに体を壊し休養せざるを得なくなった。彼女は静養先の北カフカスに引き籠るが、その時のレーニンのきめ細やかな気遣いは語りぐさになっている。彼はイネッサとその子供のために、全面的な便宜供与をするようにと関係先に指示した。しかも、それは“首相”としての立場で行なったのである。この行為について、レーニンやボリシェビキに反感を持つ人達は、今でも公私混同だ、権力の濫用だと厳しく批判している。

 

レーニン像(サハリン・ユジノサハリンスク)

 しかし、革命の同志で、自分に忠実なボリシェビキの女闘士が病に倒れたら、それを放っておけないのは当然の人道的措置だろう。首相の立場であろうとなかろうと、レーニンのイネッサ・アルマンドに対する措置は十分にうなずけるものだ。ただ、そこにはどうしても個人的な感情や親密さが垣間見えるので、レーニンに批判的な人達はそれを問題視するのだろう。
レーニンらの懸命な援助も空しく、イネッサは1920年9月にコレラが原因で他界した。享年46歳。彼女の死はレーニンに深刻な打撃を与えた。非常なショックだったらしい。モスクワの「赤の広場」で行なわれた葬儀では、憔悴しきったレーニンの姿が人目を引いたという。
同世代の女性革命家として有名なアレクサンドラ・コロンタイは、「イネッサの死がレーニンを致命的な病に陥れた」と語っている。レーニンは間もなく体調を崩し、1922年の春には脳卒中で倒れ右半身が麻痺した。もちろん、首相としての激務が最大の要因だろうが、彼はイネッサがいなくなったことで“心の拠り所”を失っていたのだ。
コロンタイが言うように、イネッサの死が“致命的”だったかどうかは知らない。しかし、2人をよく知る女性革命家がそう言うのだから、私はコロンタイの見方を否定することはできない。我々はあくまでも門外漢なのだ。とにかく、そういう理屈っぽいことを言わなくても、イネッサがレーニンの心の支え、いや、ある意味で永遠の恋人、女性であったことは間違いないだろう。彼女への膨大な手紙や電話などがそれを物語っている。

 レーニンは体を壊したまま 結局、1924年1月に4度目の発作を起こして亡くなった。享年53歳。彼の死は、その後のソ連の政治や国際共産主義運動に大きな影響を及ぼしたが、そういう話はここではやめよう。あくまでも、レーニンとイネッサ・アルマンドの話である。
コロンタイはクルプスカヤが、夫レーニンのイネッサに対する“情熱”を知っていたはずだと言っているが、それは当然だろう。ただ、クルプスカヤはそ知らぬ振りをしていただけだ。その点、彼女は賢い。まさに「分をわきまえた珍しい三角関係」だったと思う。

 レーニンは行動する人だった。しかし、一方で“夢見る人”でもあった。夢見るというのはもちろん社会変革、革命が主だったのだが、文学などの造詣も深い。インテリ中のインテリという感じだが、女性関係も潔癖でピュアだったと思う。余談だが、後のスターリンや毛沢東など共産主義の独裁者に比べれば、はるかに純潔だった。スターリンや毛沢東は何度も結婚を繰り返し、女性関係はどう見ても乱脈だったと言える。
そうした比較はさておき、レーニンが唯一 恋い焦がれたのがイネッサ・アルマンドだろう。これこそ“プラトニック・ラブ”と言うのだろうか。彼がイネッサを愛したことはすでに述べたが、実にきめ細やかな気遣いをしている。例えば、遠方にいるイネッサに対して、彼女が履くブーツのサイズを電話や手紙で何度も聞いているのだ。革命政府の首相として多忙を極めていたレーニンが、こんなにも一女性に執着するとは信じられないことである。それほど彼は、イネッサのことを想っていたのだ。
レーニンに反感を持つ人達は、これを余りにプチブル的な行為と批判するだろうが、私はそうは思わない。ごく自然な愛情表現だろう。逆に、レーニンのような革命に凝り固まった人間にも、優しくいじらしい一面があるものだと思ってしまう。イネッサは、やはりレーニンの“心の安らぎ”だったのだろう。
ソ連崩壊後、レーニンの威信は大きく傷ついた。共産主義の幻想も色あせた。ロシア革命とは何だったのかという、深刻な検証も行なわれている。それはそれとして、レーニンとボリシェビキによる社会主義革命は、20世紀の厳然たる事実なのだ。それらに思いを馳せながらも、ひとすじの光のように、レーニンとイネッサ・アルマンドの純愛が心をよぎる。彼にとって、彼女は“永遠の恋人”だったのだろう。(2014年1月12日)


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