公(おおやけ)と私(わたくし)というのがある。公私の別とか公私混同など、いろいろな言葉がある。「事が公になる」というのは、公然と表立つとか、公然と世間に知られるという意味である。つまり「公」とは知られて当然、いや、一般に知られなければならないものを言うのだ。
これに対して「私」とは、自分一身だけに関する事柄(私事)で、まさに「公」に対するものだ。したがって、私事は“プライバシー”によって保護されなければならないが、公の事は出来るだけ知られなければならない。こんなことは誰でも知っているだろう。
したがって、国家という公の組織の事は、出来るだけオープンに、国民に知られなければならないのだ。これを一般に「情報公開」と言う。こんなことは当たり前で、昔の絶対君主制の国や独裁国家ならば別だが、民主主義国家なら“イロハ”のイである。
だいぶ前置きが長くなったが、これはいま、特定秘密保護法案なるものが論議されていたので、基本的なことを述べたまでだ。もちろん、国家には「機密」というものがある。他国と戦争状態にあったり、困難な外交交渉を行なっている時などは、情報が外部に漏れては不都合な場合がある。そんなことは百も承知だが、平時においては、公の情報は出来るだけ国民に開示されなければならない。これが原則だ。
そうした観点に立つと、国家の重要な情報、すなわち機密(秘密)が一部の当事者だけに限定されると、これは主権在民という民主主義の根幹を侵害することになる。つまり一部の当事者が、「公」の情報を「私」することにつながるのだ。これは民主主義の原則に反する。
もっと分かりやすく言うと、“公金”を私してはならないことは誰でも分かっているが、それと同じように、公の情報・機密も一部の当事者や官僚が私物化してはならないのだ。これこそ民主主義の原点である。
そう考えると、機密(秘密)の範囲を拡大しようという特定秘密保護法案は、民主主義の原点に反するとともに、「国民の知る権利」を侵害するものだと言わざるを得ない。この法案を直ちに廃案にすべきである。以上、本日はだいぶ理屈っぽくなったが、主権在民の民主主義の原点から述べた次第である。
昨日はありがとうございます。
物事を見極める!とても大事だけれど、むずかしい!
民主主義の大事さを日本は平和に慣れ過ぎてわ擦れてのかも・・・
昔、ロシアに山旅したとき、カメラ撮影出来ない場所がたくさんあり、もし、撮影して,銃で撃ち殺されても、仕方ないのだと厳しく言われた事を思いだします。
私も昔、仕事で旧ソ連時代のモスクワに行ったことがあります。クレムリンなど撮影は厳しく制限されていましたね。今はずいぶん自由になったでしょうか?
民主主義や自由は守らなければならないと思います。その自覚が大切だと思います。