武弘・Takehiroの部屋

このブログは 文系のあらゆることを発信し 
あらゆることを発表するのを 使命とする

過去の記事(2)

2024年06月25日 03時35分54秒 | 過去の記事

② 小沢裁判と陶片追放。 小沢一郎とシーザー、信長、龍馬。 毒性・抵抗力・免疫。 思考の劣化こそ“現代病”ではないか。 管理社会と感性の喪失

小沢裁判と陶片追放 

以前にも書いたが、古代ギリシャのアテネに「陶片追放」という制度があった。これは排除したい政治家などの名前を陶器のカケラに記し、一定数に達するとその者は国外に追放されるという制度だ。
この「陶片追放」は紀元前508年から90年ぐらい続いたそうだが、完全に秘密投票だから、誰が誰の名前を書いたかは分からないシステムだ。ところが、この制度は“政争”に悪用され、民主政治が衆愚政治に陥ったので廃止になったと言われる。 例えば、有名なペルシャ戦争で、アテネを勝利に導いた英雄テミストクレスもこの制度によって追放された。ここで「陶片追放」のことを長々と説明する時間はないが、私はふと、これが民主党元代表の小沢一郎氏を強制起訴した「検察審査会」に極めてよく似ていると思ったのである。
ご承知のように、検察審査会もメンバーの名前がさっぱり分からず、完全に秘密裏に議決をしているのだ。いや、本当に審査会をやっているのかと疑う人もいるほどだ。 それはともかく、排除したい人間を秘密裏に強制起訴する点では、陶片追放と極めてよく似ている。だから私は、今回の小沢裁判を現代の「陶片追放」だと呼んでいるのだ。
 
さて、本題に入ろう。いわゆる「小沢事件」(政治資金規正法違反容疑)については一昨年2月4日、東京地検が小沢氏を「不起訴」処分にした。ところが、翌5日に東京第5検察審査会に、ある人から「審査申し立て」が行なわれた。 このある人とは、在特会こと「在日特権を許さない市民の会」代表の桜井誠氏である。
ちなみに、桜井氏は小沢氏から個人的に被害を受けたなどの関係は全くなく、一市民の立場で申し立てをしたわけだ。これは明らかに「検察審査会法第2条第2項」に違反するものだと厳しく指摘する人も大勢いるが、結局、第5審査会事務局はこの申し立てを受理したのである。 上記の検察審査会法では、告訴人や告発人、被害を受けた当事者らでなければ申し立てはできないことになっているのに、なぜか第5審査会はこれをすぐに受理したのだ。
おかしいとは思わないか。 2月4日に検察の不起訴処分が出たというのに、間髪を容れず翌5日には審査申し立てが行なわれたのである。こんなに手際の良いことがあるのか! これでは、検察側と桜井氏の間で綿密な打ち合わせがあったと疑わざるを得ない。普通、審査申し立て書類を準備するだけでも、大変な手間がかかるのだ。
もう少し利口な人間(?)なら、疑われないように1週間から10日たって申し立てをするのが普通だろう。それが待ってましたとばかりに翌日に申し立てをしたのだ。まさに“出来レース”ではないか!
 
私は、桜井氏の申し立てが検察審査会法に違反していると思っているが、ここで法律論争をするつもりはない。とにかく、第5審査会事務局はあっさりと受理したのだ。また、桜井氏が代表を務める「在特会」が在日韓国人・朝鮮人に対して激しい抗議行動をしているのは知っているが、ここではそれを取り上げるつもりはない。
問題は、何の関係もない一市民の申し立てがこんなに簡単に受理され、それが一政治家の運命をも左右するということだ。果たしてこういうことが許されるのか。私は小沢一郎という人間は好きではない。むしろ嫌いなタイプだ。 しかし、こんな理不尽な法手続きで、ある人間が強制起訴されることは絶対に認められない。これでは古代アテネの悪名高い「陶片追放」と同じではないか!
民主主義のアテネは、衆愚政治の果てにやがて衰退していった。民主主義は良いが、「市民」だ「国民」だという名の下に、完全秘密主義で強制起訴をしていったら亡国のアテネのようになる。民主主義社会を混乱させるだけだ。本日はここまでにしておくが、皆さんはどのように思われるか。
なお、末尾に参考資料をリンクしておきたい。(2012年1月13日)
 
検察審査会・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E5%AF%A9%E6%9F%BB%E4%BC%9A#.E7.94.B3.E7.AB.8B
桜井誠氏のブログ・・・http://ameblo.jp/doronpa01/entry-10455665539.html
極めて参考になる記事・・・http://www.janjanblog.com/archives/11774
 

 

小沢一郎とシーザー、信長、龍馬

 今日は少し歴史ロマン風な話をしたい。日本の裁判官と同じように「独断と偏見」で話をするのだ(笑)。
 小沢一郎(敬称略)も歴史上の大人物であるジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)や織田信長、坂本龍馬と比較されれば、悪い気はしないだろう。この3人は現代でも人気のある“英雄”だからである。しかし、3人とも非業の最期を遂げた。3人とも殺されたのである。そこがまた面白い共通点だ。
 昔と違って、現代では政治家が殺されることは滅多にない。しかし、殺されなくても「政治生命」を絶たれることはある。小沢一郎が裁判で有罪が確定すれば、政治生命を絶たれるだろう。それは政治家としての「死」を意味するのだ。
 さて、なぜシーザーや信長、龍馬を例に挙げるかと言えば、この3人は非常に優れた“改革者”だったということである。3人の業績をいちいち述べていったら切りがないから、気が付いたことだけを紹介するに止めたい。そして、現代の改革者である小沢一郎と比較していきたいのだ。
 
改革者というのは、必ず旧体制の勢力と衝突する。これは当たり前だ。世の中や社会を変えようと思えば、既得権益を守ろうとする旧体制と敵対せざるを得ない。これはフランス革命やロシア革命など、歴史を見れば明らかである。
 日本の場合は幕末から明治維新にかけて、改革派が徳川幕府の封建体制と激しく衝突した。その時の改革派のリーダーの一人が坂本龍馬であり、彼は日本の“夜明け”を目前にして凶刃に倒れたのである。あの時代、龍馬ほど合理的で“自由な人間”は他にいなかった(日本で最初の“新婚旅行”をしたのも龍馬である)。 彼は新時代に備えて「亀山社中」や「海援隊」を組織し、武器の調達や商売などを通じて「薩長同盟」を実現、維新回天の礎を築いたのである。これほど柔軟で合理的な施策があっただろうか。こんな発想は封建時代にはあり得なかったことだ。
 また、織田信長は戦国時代に、安土城下に有名な「楽市・楽座」を設け、中世的な座の特権を廃止し、市場税や営業税を免除する方策を取った。このため、商人や職人らがどんどん安土城下に流れ込み、人間や物資、商品、技術が集積されていって町は繁栄したのである。 こんなに自由で合理的な施策を実行した戦国武将は、他にほとんどいない。信長はそれによって得た財力をバックに、戦国最強の軍団を組織していったのである。
 信長や龍馬の自由で合理的な発想は、どこか小沢一郎の政治理念や政策に似通っていると思う。 「民力」をバックにこの国を改革しようという姿勢だ。はっきり言うが、今やこうした民力の向上に立ちはだかるのが「官僚勢力」である。
 官僚こそ現代日本の“既得権益”の代表であり、自らの利益を守るために一切の改革を阻止しようとしているのだ。これは公務員制度改革を潰そうとしたり、改革派の小沢を裁判にかけ息の根を止めようとしている所に現われている。
 
改革派勢力が台頭してくると、必ず“守旧派”がこれを阻止しようとするのが歴史の常だ。古代ローマの英雄ジュリアス・シーザーの場合もそうである。彼はいわゆる「民衆派」であり、古い体制を擁護する元老院と激しく対立しながらも、民衆のための施策を着々と実行していく。小沢一郎が言う「国民の生活が第一」と同じである。
 最後はご承知のように、元老院側についたポンペイウス派との内戦に突入し勝利するのだが、その間、シーザーを支えたのは豊富な財力である。財力で軍事力を整えた。彼は一時“借金王”という異名を取ったほどだが、とにかくシーザーの下に金が集まり、金が散っていった。まるで小沢みたいではないか(失礼)。
 古代ローマと今の日本では丸っきり状況が違うが、昔から実力者の所には必ず金が集まるのだ。これも歴史の常である。むろん、シーザーがいた頃には「政治資金規正法」はなかっただろうが(笑)、金というのは実力者の所に集まるのが歴史の法則である。信長もそうだったし、龍馬は一介の浪人だったくせに、金回りが良かった。問題は、その金をいかに有効に正しく使うかである。それは時代や個々人によって違ってくるが、現代日本では「政治資金規正法」という枠があるのだ。
 ここで小沢一郎の政治資金問題を述べる時間はないが、歴史とは、政治とはそういうものである。私のような無力な人間の所には1円も集まらないが(笑)。
 
話が長くなってきたのでそろそろ切り上げるが、改革者ほど守旧派から憎まれ嫌われる存在はない。シーザーも信長も龍馬もそうであった。だから3人とも守旧派に殺されたのだ(断っておくが、信長を殺した明智光秀は家来であったが、彼の思想や来歴は完全に守旧派だったのである。もちろん、個人的な恨みや野心もあったが)。
 今の日本の政治を一言で云えば、官僚派対民衆派の戦いである。言葉を替えれば、守旧派対改革派の戦いである。 政権交代を成し遂げた小沢一郎は改革派の代表みたいな存在だが、今や裁判によって守旧派から「政治生命」を絶たれようとしている。この戦いはどうなるか知らないが、歴史的に見ればそういう“構図”だと思う。
 今日は独断と偏見をまじえ、政治の戦いを歴史ロマン風に語ったつもりだ。視野を広く持とう! (2011年10月17日)

 

<毒性・抵抗力・免疫(前編)>

先日、喫煙と肺がんの関係について一文を書いていたら、人体の「抵抗力」とは何かと考えるようになった。
私は医師や科学者ではないから、もちろん専門的なことは分からない。しかし、病気と人体の抵抗力について考えるのは自由である。私は科学者ではないが、一人の自由な思想家なのだ。以下、独断と偏見を交えて人体の抵抗力を考えていきたい。この場合の「抵抗力」とは、病気や病原菌に耐える力のことである。
 
タバコは人体にとって有害である。これは臨床医学で明らかになっているし、ニコチンやタールが健康に良いわけがない。非喫煙者は知らないだろうが、今のタバコの箱には肺がん、心筋梗塞、脳卒中、肺気腫などの原因になったり、それらの病気を悪化させる危険性があると、くどいように書いてあるのだ。売る商品にそんな告知をしている物は珍しいのではないか(笑)。
それほど、タバコは健康に良くないということだが、肺がんなどの原因は多種多様であり、ヘビースモーカーでも長生きした人が大勢いる。また、統計学的にも、この40年間で喫煙者が大幅に減っているのに、なぜか肺がんなどが急増している実態も明らかになっている。どこか変ではないのか。(以前の記事を参照してもらいたい。・・・http://blogs.yahoo.co.jp/yajimatakehiro2007/38881796.html
 
そこで、少し視点を変えてタバコの“毒性”について考えてみたい。何年か前、私の知人から聞いた話だが、その家では長男(20歳代)だけが喫煙していて、残りの父母や妹はタバコを吸わないとのことだった。
ところが、季節の悪い頃か、父母や妹の部屋にダニだかシラミが沢山出てきて困ったというのに、長男の部屋には全く出てこなかったそうだ。これは明らかに、タバコのニコチンやタールなど毒性のある物が害虫を排除、駆逐したものと考えられる。その時、タバコにも変な“効果”があるんだなと思ったものだ。ニコチンやタールは人体にとって良くないが、害虫を駆除するには有益だと思ったのだ。

こんなことは当たり前の話だろうが、それから、どんな「物質」も人間にとって、良い面と悪い面の両面があるのではと考えるようになった。つまり、それは人間の使い方次第によって悪くなったり、良くなったりするのだ。
タバコの話からいろいろ考えるようになったが、「毒性」とは何かということである。少し調べたが、昔から「麻酔」には、アヘン、大麻、アルコール、クロロホルム、コカインなど、毒性の強いものばかりが使われている。名前を聞いただけでもゾッとしてしまう。しかし、人間はこうした毒性のあるものを有効に活用してきたのだ。
また、いま話題になっている「放射線」も病気の治療に役立っており、殺菌や減菌、害虫の駆除などにも使われている。ということは、「ものは使い方次第だ」ということである。

病気という“害毒”を治すには、薬という毒性のあるものが必要なのだ。薬なんか要らない状況が、人体にとって最も健全である。病気をするから、仕方なしに我々は薬を使うのだ。薬も多用すると良くないと言われる。それは薬に毒性があるからだ。
そう考えると、昔の人はうまいことを言った。「毒をもって毒を制する」と。また、あまり役に立たないものを「毒にも薬にもならない」と言った。これらの言葉は真実であり、たぶん真理だろう。
どんなものでも、毒性が強ければ強いほど危険だが、逆に毒性が強いほど効き目がある。昔の人はこれを「良薬は口に苦(にが)し」とも言った。これも真実だろう。しかし、毒性が強すぎると、現代ではこれを「劇薬」と呼ぶ。
あれ、おかしいな~と思うだろう。劇薬と言うと、良くないものだ。まして「薬物」と言うと、覚醒剤や麻薬などを思い出し、これは完全に取り締まりの対象になる。話がだいぶ逸れてしまったが、要するに“薬”と“薬物”というのは紙一重の差なのだ。
今日は毒性の話ばかりで、本題の抵抗力や免疫の話に入れなかったが、全ての物質は人間にとって良い面と悪い面があり、それらは活用次第で大きく変わるということを言っておきたい。次回から、本題の抵抗力や免疫の話に入る。(2011年9月10日)

 

毒性・抵抗力・免疫(後編) 

人体が丈夫で健康なことは素晴らしい。また、摂生して体を鍛えるのも良い。しかし、これが長生きに繋がるかといえば必ずしもそうではない。 「一病息災」と言って、一つぐらい持病がある方が健康に気を使い、かえって長生きする例もある。また、見るからに弱々しくて、痩せ細っていても長生きする人が大勢いる。人さまざまだ。
ところで、つい先日まで元気一杯だった人が急に亡くなったり、人間ドックで何の異常もないと診断された人が急逝することがある。あれは何なのか。こういう例を私は何度も見てきた。
前置きが長くなったが、要は病気に対して「抵抗力」があるかないかの問題だろう。抵抗力がなければ、どんなに丈夫な人でもアッと言う間に亡くなる。この場合の「抵抗力」とは、病気や病原菌に耐える力のことである。
 
そこで、最も一般的な抵抗力の話をしよう。それは「免疫」のことだ。免疫とは病気、特に感染症(伝染病)に対して抵抗力を持つことである。
医学に弱い私は、これは不思議な現象だとずっと思ってきた。しかし、全ての物質が“毒性”を持っており、この毒性の「相互作用」によって世界(万物)が成り立つと考えれば、何ら不思議ではない。
「ワクチン」というものがある。誰もが知っているが、これはもともと毒性から成っている「病原体」を人体に注入し、体内に抗体を作って感染症にかかりにくくするものだ。つまり、前にも述べた「毒をもって毒を制する」というやり方だ。毒性がなければ、それこそ「毒にも薬にもならない」ということだ(笑)。
万物は毒性から成り立っている。「毒性」という言葉が気に入らなければ、思い切って「神性」にでも「霊性」にでも変えて欲しい。ただし、現代医学が「毒性」と言っているから、私はそれに従っているだけだ。

余りにも有名な話をしよう。ワクチン(牛痘)を発見したのは、イギリスの医学者エドワード・ジェンナーだが、これが天然痘ウイルスに対して免疫を持つということが分かり、彼は後に“近代免疫学の父”と仰がれた。
ジェンナーは田舎の開業医をしていた頃、農民の言い伝えで、牛と接して牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという話を聞いた。それから彼は18年も研究を続け、牛痘が天然痘の予防に使えると確信し、8歳の少年に「予防接種」をするというあの有名な物語が誕生したのである。(以上、ウィキペディアを参照)
当時、天然痘は“悪魔の病気”と恐れられていたから、少年に対する予防接種は、今ならさしずめ無謀な「人体実験」と非難されただろう。余談だが、ジェンナーが発見した種痘法は、イギリスの医学界からなかなか認められなかったという。しかし、その後の天然痘の大流行でようやくその効用が認められ、やがて世界中に広まっていった。天然痘は今では根絶されている。

ジェンナーの話になってしまったが、もし私も当時のイギリス農民だったら、種痘なんか気持悪くて受けたくなかっただろう。なにしろ牛痘、つまり牛のウミ(膿)を接種されるのだ。「ジェンナー先生、牛のウミなんか嫌ですよ。どうしてもやるんですか?」と、顔をしかめたに違いない。
しかし、ジェンナー先生のお陰で助かったとなれば万々歳である。このように「毒をもって毒を制する」というやり方を見れば、万物は毒性から成り立っていることが分かる。たまたま昨日、ある方が、ヘビの猛毒から難病に効く新薬が出来たとのコメントをいただいた。猛毒でも何でも、活用の仕方次第では有効になるケースはいくらでもあるのだ。
ただし、免疫については「アレルギー」という厄介な症状もある。これは免疫反応が“過剰”に起きるものだ。もちろん個人差があるが、毒をもって毒を制するのだからやむを得ない現象だと思う。アレルギーの話は専門家でないので、それは医師に聞いてもらおう。

初めに、人体の抵抗力(医学的には「抗体」と言う)について話したが、これは人間の精神面でも言えるのではないか。子供にポルノ写真とか残虐な映像を見せないのは、子供にまだ精神的な「抵抗力」が育っていないからだ。
大人になれば抵抗力が備わるから、ポルノ写真なんか見てもどうってことはない。しかし、子供は純真無垢な面があるから、そうした映像に衝撃を受ける。純真無垢とは、精神的に“毒素”が少ないということだ。毒性が薄いと言ってもよい。
大人になると毒性が自然に濃くなり、精神的に強くなる。だから、子供はすぐに泣いたり喚いたりするが、大人はおおむね平然として対処することができるのだ。
精神面でも、毒性が強くなることは抵抗力が備わるということだ。ちょっとやそっとで挫けない。これは精神的な「免疫」と言えるだろう。
以上、私は独断と偏見で、人体と精神の抵抗力・免疫について論じてきたが、まだ言い足りないことは幾つかある。本日はこれまでとして、また機会を見て論じていきたい。(2011年9月11日)

  

思考の劣化こそ“現代病”ではないか

先日、私は自分のあるブログ記事の中で、日本社会は成熟してきたとコメントしたのだが、ある人から「日本社会は、どんどん幼稚化してきたのでは」というコメントをいただいた。
 その時、ハッと気がついたのだが、日本人だけでなく現代人は“劣化”しているのではと思った。どういう意味かというと、現代人はものを考えるという習性が弱くなってきたのではと思ったからだ。しかし、そんなことはない、私はものをよく考えていると言う人がいたら、まず先に謝っておきたい。
世の中がコンピュータ化し機械化が進み、人々は便利な生活を享受するようになった。それは結構なことだと思うし、もう昔のような非文明的な暮しには戻れないだろう。科学技術は日進月歩だし、パソコンやら携帯電話やらコンピュータゲームなどが登場してきた。生活は確かに豊かになったし、私のような年配者もこうしてブログを楽しんでいる。
 しかし、ものを考える面ではどうだろうか。例えば、今の子供たちは文脈を正しく理解するのが苦手だし、きちんと計算するのが下手なことが立証されている(ゼロが沢山出てくると迷うらしい)。
 大人もそうだ。昔は電卓などなかったから、数字をいちいち計算したり算盤をはじいたりしていた。今は電卓ですぐに答えが出るし、何よりもスピードが求められているから、頭を使うよりも“指先”の動きが重要になっている。私も暗算がいつの間にか苦手になった(ボケもあるが)。
 
簡単な計算でさえこうだから、複雑な事柄はほとんどコンピュータ任せになる。まあ、これは科学技術が進歩したから仕方がないだろう。逆の面から見れば、ものをじっくりと考える「環境」が失われてきたのだ。また、じっくりと考える必要がなくなったと言ってよい。それと、情報量がもの凄く多くなったこともある。次々に情報が入ってくるので、人々はそれらを吟味する間もなく、その整理に大わらわといった感じである。
 そうなると、考えることよりも、いかにスピーディーに物事を処理するかが問われるわけで、考えている暇などないということになる。下世話な言い方だが「馬鹿の考え、休むに似たり」という感じになる。
 また、世の中がデジタル化したせいか、0(ゼロ)か1か、白か黒か、イエスかノーかといった“短絡的”な思考方法が主流になりつつある。例えば、白と黒の間には膨大な「灰色」があるはずだし、イエスとノーの間には様々なニュアンスがあるはずである。アナログ的思考の場合は、これらをいちいち考えて結論を出そうとするが、デジタル的思考の場合は、ともすると白か黒か、イエスかノーかという結論を迫られる。世の中は進歩しているはずなのに、短絡的な事件がいかに多発していることか!
以上、私は独断と偏見で話をしたから、異論はかなりあると思う。しかし、世の中がこうなってくると、思考そのものが疎んじられてきたのではと思ってしまう。何事もコンピュータで結論を出そうという風になっていないか。つまり、現代人は自分で考え、熟慮して決断を下すということが少なくなったのではないか。 どうすれば良いか迷った場合、コンピュータにデータを入力してその結論に従うことが当たり前になったのではないか。つまり、考えることを“放棄”しようというのだ。もっとも、その方が楽に生きられるだろう。

子供の思考能力が劣化してきたのは間違いない。しかし、現代では大人も思考能力を失いつつあるのではないか。冒頭で、ある人の言葉「日本社会は、どんどん幼稚化してきたのでは」を紹介したが、これは日本人だけでなく、今の人々に共通の“現代病”だと思う。思考の劣化・停止こそ現代病ではないのか。
 オーギュスト・ロダンの彫刻に有名な『考える人』がある。大抵の人は知っているだろう。あのブロンズ像は日本をはじめ世界の各所にレプリカがあるが、今の子供たちはあれを見てどう思うだろうか。沈思黙考する姿に「何だ、これは」とか「馬鹿の考え、休むに似たり」とでも思うのだろうか。 そうでないことを祈る。人間が考える姿は美しいと思うからだ。
 思考能力が衰えた現代人は、ちょっとした情報に踊らされやすい。マスコミのちょっとした情報に右往左往したり、付和雷同したり、一喜一憂したりする。しかも、情報は毎日 洪水のように人々に襲いかかってくる。正直言って、私も考える力が衰えたが、現代人はもっと思考能力を鍛練する必要があるのではないか。(2010年2月16日)

 

管理社会と感性の喪失

成熟した社会は「管理社会」になると先に書いたのだが、これには世の中がコンピュータ化したことが大いに寄与している。言ってみれば、コンピュータに管理されているようなものだ。
 それが良いとか悪いとかという問題でなく、現実がそうなってしまった。しかし、それによって人間の実感とか体感というものが劣化したのは間違いない。
 例えば、私の会社員時代に最も大きなショックを受けたのは、給料が「振り込み」になったことである。これはほとんどのサラリーマンが経験していることだが、私の場合はもう何十年前だろうか、それまで現金の入った給料袋を受け取っていたのに、ある日突然、給与の明細書だけ渡され、月給は全て銀行振り込みになってしまった。
 その時は実に寂しい思いをしたものである。しかし、会社が事務処理を早く円滑に進めるためには、給与の銀行振り込みをぜひ実施したいというので、やむを得ずそれに従ってしまった。
 ところが、私の同僚の中には、給与はどうしても現金でもらうことに固執した者が何人もいて、彼らは長い間(定年間近まで)、銀行振り込みを拒否していた。労働法規にはたしか「給与は現金支給」が原則といった条文があったように記憶する。
 それはともかく、現金の入った給料袋を持って帰宅すると、妻が待ちかねていたように「ありがとう。ご苦労さま」と言って、押しいただいていたのを思い出す。その時は、自分もちょっぴり優越感にひたり、俺が稼いだ金なんだぞという気分になったものだ。
 ところが、銀行振り込みになってからは、妻が銀行で給料を引き出してくると、その一部を小遣いとして私にくれ、残りは全て彼女が管理するようになった。こうなると立場が逆転して、私が妻から給料の一部をいただいているような“錯覚”に陥る。銀行振り込みを断固拒否している同僚が羨ましく思えた。
 ボーナスの時は袋が分厚く(???)なるはずだが、これも明細書1枚だけだ。銀行振り込みだと紛失や盗難などの心配はないが、これもやはり寂しい。
 いつだったか、業績好調というので「一時金」が現金で支給されたことがあった。この時は嬉しかった! 袋を開けて10数万円だかを取り出し、さっそく飲みに行った。帰宅して女房にたしか2~3万円だかくれてやったが、別にやらなくても良かったのに・・・ つまり、人間は給料などを現金でもらうと“実感”が湧くのである。この実感や体感が大切なのだ。これがアナログ的感覚なのである。
 ところが、世の中がコンピュータ化されデジタル社会になってくると、このアナログ感覚が失われる。何かバーチャル(仮想的)な感じになってくるのだ。頭の中では分かっていても、実感や体感が失われてくる。
 仕方がない面もあるが、この実感の喪失というのが危険ではないのか。何か人間が“ロボット”のようになっていく気がする。つまり「感性」の薄い人間ばかりが増えてくる気がする。そう言えば、未来の戦争はロボットが主体で行なわれるそうだが、そうなると人間はコンピュータやボタンをいじっていれば良いのか。
 話が少しそれたが、バーチャルな世界で育ってくると、仮想世界が現実の世界に見えてくる。バーチャル・リアリティというものだ。
 しかし、人間というのは本来、実感や体感を欲しているのだ。悪い例だが以前、飛行CPゲームだかに凝った航空機マニアが、実際に機長を刺して飛行機を乗っ取り、東京のレインボーブリッジの下を通過しようとした事件が起きた。つまり、彼は仮想世界を実感や体感で経験したくなったのだ。仮想と現実の区別がつかなくなったのである。
 人間本来の「感性」は大切なものだが、コンピュータに管理された社会では“頭でっかち”な若者が育ち、彼らは時々とんでもない事をし出かすことがある。
 それは人間本来の情緒を無くした者が、仮想の世界から現実に戻ろうとする時によく起きるのだ。こうした傾向はさらに強まるだろう。しかし、誰もそれを食い止めることは出来ない。世の中がますますそういう方向へ進んでいるからだ。
 今日は少しまとまりのない話になったようだが、感性のある方だったら筆者の言わんとすることを“感得”してくれたかもしれない。(2010年3月30日)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 過去の記事(1) | トップ | 過去の記事(3) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

過去の記事」カテゴリの最新記事