書こうか書くまいか迷っていたが、やはり書こう。有馬真喜子さんと言ってもほとんどの人は知らないが、先日、たまたまテレビを見たら彼女が出ていた。有馬さんはフジテレビの番組審議会委員長だそうだ。私は急に懐かしくなって、胸に熱いものが込み上げてきた。それほど懐かしいのである。彼女は御年80歳になるが、相変わらず若々しくて愛らしい(笑)。とても80歳には見えない。なんだか有馬さんにゴマをすっているようだが、もちろん他意はない。
有馬真喜子さんに出会ったのはもう40年以上も昔になるが、履歴によると、彼女は1968年にフジテレビとニュースキャスターの専属契約を結んだとある(末尾に履歴を紹介)。その頃のことはよく知らないが、それから数年して報道の現場で出会ったのが最初だと思う。
有馬さんは朝日新聞の記者からテレビキャスターに転進したのだが、その頃は女性の新聞記者も極めて珍しかっただろう。まして、新参の民放テレビ局には女性記者などは皆無だった(ただし、NHKを除く)。もちろん、女性のニュースキャスターなどはいなかったと思う。ごめん。唯一、TBS出身の木元教子さんが女性初のキャスターになっていただろうか。
あまりに昔のことなのでよく覚えていないが、とにかく有馬さんは木元さんと並んで、女性テレビキャスターの“草分け的”存在だった。その頃は保守反動(?)のフジテレビが、よくも木元さんや有馬さんをキャスターに抜擢したものと感心するが(笑)、それも時代の流れだったのだろう。こうして私は有馬さんに出会ったのだが、女性が報道の現場にいるということが非常に珍しい時代だった。
そういう意味で有馬さんは大いに注目されたが、アナウンサーではないから、原稿を読むのは決して上手とは言えなかった。つっかえたりミスをしたりと周りをハラハラさせたが、われわれは“紅一点”の彼女を大いに支えたつもりだ。というのも、彼女は明るい性格で誰からも好かれる人柄だった。8歳年下の私から見れば、愛らしい“お姉さま”という感じだった。それで皆が有馬さんを支え励ましたと思うが、彼女ももちろん、一生懸命努力したと思う。
取材の現場に行くと、よく朝日新聞の記者から言われた。「有馬は大丈夫なの?」とか「あの有馬がニュースキャスターとはね・・・」とか、なかなか厳しいご意見である。私はもちろん彼女をかばったが、朝日の記者の中には、昔の有馬さんのことを暴く者もいた。彼女が駆け出しの記者時代に、ある凄惨な事件現場に行ったら“腰を抜かした”などと古い失敗談を披露するのだ。しかし、これも有馬さんが当時珍しい女性記者だったから注目を集めていたのだろう。
このように、何事も草創期の人たちは苦労する。まして、記者やキャスターなど完全に男性優位の職場に1人の女性が立ち向かっていくのは、今では想像もできないほど大変だったろう。そういう意味で、有馬さんはよく頑張ったと思う。いま80歳の彼女がとても元気そうなのを見て、私もなにか励まされたような感じだ(笑)。胸に熱いものが込み上げてくる。“お姉さま”を強引に飲み会に誘ったり、私のどうでもいい自費出版の本を無理に贈呈したりと、懐かしい思い出がよみがえってくる。
まだ書き足りないが、自分自身のボロがあまり出ないうちに止めておこう。番組審議会委員長はどうでもいいが、有馬さんがますますお元気に活躍されるよう陰ながら祈る。
奥さまニュースはトークコーナーの後、提供(後)が出て、このあとニュースダイジェストをお送りしますというスーパーが出てた気がします。
ニュースもそのセットでお伝えしてたと思います。
有馬さんは記者出身らしく、いろいろなことに興味を持っていたようです。当時、「ジャッカルの日」で有名なF.フォーサイスについても、ある記者と熱く語り合っていたのを思い出します。
80を超えてもお元気なのでしょう。ますますご活躍のほどを祈念します。
その時も、「津田塾の理事会があるのよ」などと大変にお忙しい様子でした。
彼女には、日本の女子教育の先駆者津田梅子の思いを受け継いでいるように見えました。
はじめはニュースだけでしたが、あとでトーク・コーナーができたと思います。
自分が見た頃は、ニューススタジオではなく、窓とカーテン、そしてソファーのセットだったような気がします。