武弘・Takehiroの部屋

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不滅の女性アスリート・人見絹江

2024年05月28日 02時05分42秒 | スポーツ

<2009年8月2日に書いた以下の記事を復刻します。>

ユーチューブの森を散歩していたら、戦前の日本で陸上の“万能選手”として活躍した人見絹江さんの映像が見つかった(以下、敬称略)。
実は昨年8月、北京オリンピックの陸上競技・男子400mリレーで、日本が3位に入り銅メダルを獲得した時、オリンピックのトラック種目で日本がメダルを取ったのは、1928年のアムステルダム五輪の人見絹江(ひとみきぬえ)以来80年ぶりだという記事を書いたことがある。

人見絹江と言えば、私はすぐに中学時代の体育の女性教諭であるK先生を思い出す。K先生は何かというと人見絹江の話をしてくれた。よほど彼女を尊敬していたのだろう。アムステルダム五輪の女子800m競走で、人見が当時世界最強のドイツのリナ・ラトケ選手と死闘を演じ、わずかの差で2着となり銀メダルに輝いた話が主だったと思う。
そこで、ウィキペディアで人見のことを調べてみたら驚いた。彼女はその当時すでに、100m、200m、走り幅跳びで世界記録を持っていたのだ。他にも未公認で三段跳び、400m、50mなどの世界最高記録を樹立していた。いわば“万能選手”と言ったらよいのか、今で言えば5種競技、10種競技の鉄人(女性だから“鉄の女”か)という存在だったのだろう。(当時は、3種競技があったとのことだ。)
女子の陸上競技の草創期だから、人見のような傑出したアスリートはどんな種目にも頭角を現わしたと言ってよい。 その当時は女が太ももを露わにして走るなんて、欧米でも“はしたない”“恥ずかしい”と見られていたようだ。まして、女性の地位が低かった日本では、恥ずかしいどころではなかったろう。しかし、人見は自ら先頭に立って、女子の陸上競技を国際的なレベルに引き上げたのである。

ウィキペディアによれば、人見は17歳の時に身長170センチ、体重56キロとあるから、当時の日本では“大女”だっただろう。だから恵まれた体を生かして世界的なアスリートになれたのだろうが、その努力、奮闘ぶりは大変なものである。彼女が亡くなる前年(1930年)は、国内はもとより国際大会に相次いで出場し、しかもトラック競技だけでなく走り幅跳び、走り高跳び、やり投げ、円盤投げにも出場しているのだ。まさに鉄人・鉄の女である。
しかし、そうした無理がたたったのか、彼女は遠征先で体調を崩し高熱を発する。人見は帰国後、岡山の実家で1日だけ休んだものの、すぐに東京に出たりして毎日新聞の仕事をこなしていたが、1931年3月、喀血して肋膜炎で入院(大阪)、その後肺炎を併発して8月2日に死去した。享年24歳。まさに壮烈な“戦死”と言ってよいものだ。
彼女こそ日本女子陸上界の先達である。このような女性がいたからこそ日本の陸上競技が発展し、今日の隆盛を呼んだのではないか。元世界記録保持者・人見絹江は、日本が誇る栄光不滅のアスリートである。(2009年8月2日)


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2 コメント

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Unknown (おキヨ)
2019-10-07 15:19:10
矢嶋さんのブログは毎日拝見しています。面白いし含蓄があります。
NHKのドラマ〔いだてん〕を観て居ます。人見絹江さんをそのドラマで知ることが出来ました。
日本で初期のオリンピックアスリート、ずいぶん若くして亡くなったんですね。
現在、有望な女子水泳のオリンピックアスリートが血液がんに侵されていますが、全快することを祈っています。医学の進歩を信じて。

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女性アスリート (矢嶋武弘)
2019-10-08 09:05:45
中学の女の先生が人見絹江の大ファンだったので忘れられなくなりました。
あの時代と違って今や、女性がどんな競技にも参加できるようになりましたね。大変な違いです。
来年は東京オリンピック、日本の女性アスリートの活躍を大いに注目したいところです。
池江選手のカムバックも期待したいところですが・・・
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