河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

畑――そくる

2022年10月31日 | 菜園日誌

稲刈りを終えた隣の畑から
「藁(わら=稲わら)いらへんか?」
「ああ、ちょっとだけもろとくは」
「慌てんでええから、ゆっくりそくって」
「おおきに。雨降るまでそくるわ!」

そくる」という言葉がある。
標準語だと思っていたら辞書には無かった。
インターネットで調べていくと、
愛媛弁の「そくる」=「失敗する」=損くる
俗語の「そくる」=「その場・その時にすぐHする」=即る
弓道の用語の「そくる」=「的に当たる」=束る
ではない!

これ以上調べても損くるかと思っていたら、
五巡目にして、ようやく束った。
出雲弁の「そくる」=「束(たば)ねる」=束る
なのである!!
大国主命を主神とする美具久留御魂神社の氏子だけに、やはり出雲人の血が流れていたのだと確信。

ゆっくりと天日で干してから束ろと思っていたら、どうやら明日は雨模様。
そこで慌てて藁を即った

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畑――じゃまくさい

2022年10月25日 | 菜園日誌

夏野菜を片づけた今の畑が最も秋らしい畑。

ニンニクの奥は九月に植えた菜っ葉たち。必殺七種混合栽培。
菊名・小松菜・しろ菜・野沢菜・青梗菜・葱・レタス。
特に意図はない。あちこち耕すのがじゃまくさかっただけ。

キャベツ・玉レタス・白菜・リーフレタスが大きくなってきた。
キク科のレタスのおかげか、虫がついていない。
一雨降ればもう一まわり大きくなって玉になってくれるはず。
今が農薬散布のチャンスだが、じゃまくさい。

落花生105袋はめでたく完売!
早々に耕してイチゴとタマネギを植える準備。
イチゴを早く植えたいが、水やりがじゃまくさいので雨待ち。

サツマイモがあったのだが、ヌートリアがきれいに食べてくれた。
当初は頭にきたが、今となっては掘る手間がはぶけた。
残りは八つ頭。正月のおせちの縁起物。
八は末広がり。頭は頭(トッブ)に立つ。そして子孫繁栄。
年末には値段が高騰する。しかし、保存がじゃまくさい。
もう少し葉が枯れたら売ってしまおう。
余計なことをしない「じゃまくさい農法」。

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ちょっといっぷく37 ぶりぶり

2022年10月18日 | よもやま話

三年ぶりの秋祭り。
同じ村に住んでいても、しばらく会ってなかった人がかなりの人数。
「ひさびさやなあ。どないや?」
「まあ、ぼちぼちですわ」
「そうか。そらよかった。気いつけや」と年配者から言われる祭り。
校区の同級生とも久しぶりの再開。
「おっ、久々やないかい。元気か?」
「あかん。ぼろぼろや・・・では、祭りに来てないやろ!」
「そやなあ。ほなら、また!」
それで互いに通じるのが祭り。

都市型の大きな祭りではなく、鎮守の森の昔ながらの祭り。
それだけに、祭り=地域のコミニティー=結び=連帯を感じた久々の祭り。
三年ぶりではなしに、やっぱり、年に一度の秋祭り。

というわけで、久しぶりの記事投稿。
そして、四日ぶりに、心身ともに癒えて、五日ぶりの畑仕事。
里芋、赤芽大吉、小遣い稼ぎ。

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その27 幕末「松陰独行」③

2022年10月14日 | 歴史

安政元年(1854)10月24日、吉田松陰は萩の野山獄の囚人となり一年余りを過ごすことになる。
安政二年(1855)12月15日、藩主毛利敬親の温情により、病気保養の名目で野山獄を出され、実家の杉家に閉門蟄居する。
家には人を入れられないので、松下村塾の納屋を改造、増築し多くの門下生を育て、明治維新へとつながっていく。
二年間あまりのしばしの安穏の時だった。
29年間の生涯の中で松陰が成し遂げた業績は、松下村塾で後進を育てた以外、形として残っているものは何もない。
それどころか為すことすべてに失敗している。それは、どうしようもない現状を打破するために、真っ先に自ら艱難辛苦に飛び込んで行ったからだった。
 真個(しんこ=まことの)関西志士の魁(さきがけ)、英風(=立派な姿は)我が邦(くに)を鼓舞し来たれり
高弟高杉晋作の彼を賛するの辞である。

安政五年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任する。そして、すぐさま6月19日に、天皇の許し(勅許)を得ないまま日米修好通商条約に調印。
日本は騒然となる。そこで、井伊直弼は攘夷派を次々と捕まえて弾圧をしていく。安政の大獄である。
これによって松陰は12月26日に再び野山獄に投獄される。
安政六年(1859)4月、幕府より吉田松陰を江戸に送れの命令が届く。
5月25日 松陰は江戸に送還される。
  鳴かずあらば誰かは知らん郭公(ほととぎす)  さみだれ暗く降り続く夜は
 はるか右手に淡路島が見える。
  別れつつまたも淡路の島ぞとは 知らでや人の余所(よそ)に過ぐらん
 左手には一の谷の古戦場。
  一の谷討ち死にとげし壮士(ますらお=兵士)を 起こして旅のみちづれにせん
 大阪に入り、
  こと問わん淀の川瀬の水ぐるま 幾まわりして浮世へぬらん(過ごすのだろうか)

6月25日、長州藩江戸屋敷に入り、7月9日、江戸町奉行所に送られ、その後、伝馬町の獄に入る。
10月になり、取り調べをした奉行は「流罪」が相当と判断し、書面にしたためて大老井伊直弼に見せる。
直弼は筆を執り、「流」の字を消し、「死」と付け加えた。
10月20日 松陰は家族にむけて遺書を書く「永訣の書」。
 平生の学問、浅薄(せんぱく)にして、至誠天地を感格する事出来申さず、非常のここに立至り申し候。さぞさぞ御愁傷も遊ばさるべく拝察つかまつり候。
  親思う心にまさる親心 きょうの音ずれ何と聞くらん
10月25日 松下村塾の塾生に「留魂録」を書く。その最後の部分。
 心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ思い残せしことなかりけり〔安心〕
 呼だしの声まつ外に今の世に待つべき事の無かりけるかな〔静寂〕
 討たれたるわれをあわれと見ん人はきみを崇(あが)めて夷(えびす)払えよ〔尊王攘夷〕
 愚かなる吾をも友とめず人はわがとも友とめでよ人びと〔汝ら相い愛せよ〕
 七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘(はら)わん心吾れ忘れめや〔七たび生れて賊を滅ぼす〕
  十月二十六日|黄昏書す 二十一回猛士
10月27日 吉田松陰 伝馬町獄舎で処刑される。

歴史に「もしも」はないが、
もしも密航に成功していたら。もし流罪になっていたら。
松陰は明治維新の大指導者になっていただろう。
もしも春やんがこの記事を書いていたら、こう言うだろう。
――明治になった時に、首都をどこにするかという議論があったんや。
その中で大久保利通が、幕府との縁を絶つために大阪遷都論を唱えよった。
残念ながら東京になってしもたけど、もしも吉田松陰が生きていたら、絶対に思い出深い大阪にしてるはずや。
その大阪でもいちばん世話になったんはどこや?
富田林やないかい!
富田林が日本の首都や!!――

※真ん中の版画は川瀬巴水(国立国会図書館デジタルコレクション)
※下図は「浪速百景・大阪高麗橋」(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

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その27 幕末「松陰独行」②

2022年10月13日 | 歴史

富田林を旅立って、わずか二か月後に、24歳の吉田松陰が目の当たりにした「黒船来航」は、その後の松陰の人生を大きく変える。
29才で刑に処せられるまでの五年間の半分を、獄舎の中で過ごすことになる。

ベリーは開国を促す親書を幕府に手渡し、「1年後に再来航する」と告げて6月10日に浦賀を去った。
黒船来航を目の当たりにした松陰はどう感じていたのか?
松陰曰く、「天下の大義を述べて、逆夷(=外敵)の罪を征討(=討伐)すべし」。
水戸藩と並んで長州も攘夷(じょうい=外敵を追い払う)思想の強い藩だった。
それも単なる「攘夷」ではなく、「敵愾(てきがい=外敵と戦う)」という過激なもので、
1863年の高杉晋作らによる四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)は、長州藩としては当然の行動だった。

その一方では密航を試みる。佐久間象山の「男子たるもの、できれば海外に遊び、世界の形勢に通じ、以て緊急時の役にたたねばならぬ」の言葉に沿った行動である。
同年7月、ロシア軍官四隻が長崎に来て貿易を求めた。9月、松陰は長崎に向かう。ロシア船に乗って密航するためだ。
「彼を知り己を知るため」である。しかし、長崎に着いた時には、露艦船は出港した後だった。
為すすべ無く松陰はその年の末、江戸に帰る。
ところがすぐに好機が到来する。安政元年正月18日、約束通りペリーが軍艦四隻、汽船三隻を率いて江戸羽根田に侵入して来た。
松陰は弟子の金子重輔とともに小舟に乗って黒船に近づき、渡米を懇願する。
しかし、ペリーは幕府との交渉の妨げになると考え拒絶する。
松陰らはやむなく引き返し自首し、江戸小伝馬町の獄につながれ取り調べを受ける。
幕府の処置は実父の杉百合之助に預けるという寛大なものだったが、幕府を恐れる長州藩は萩城下の野山獄への入牢を命じる。
  かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

春やんが言った「夢なき者に成功なし」という松陰の言葉の詳しくは次のようなものである。
 ――夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし――。
しかし、『松陰全集 全10巻』のどこにも見当たらないそうだ。それに、「理想」のような抽象的熟語が使われるのは明治時代以降のことだ。どうやら眉唾物なのだが、よく似た言葉がある。
〇遊学を許されて富田林に来た24歳の時、藩主毛利敬親への手紙の中に(一部省略)、
 ――「誠」の一字、三大義あり。一に曰(いわ)く実(じつ)なり。二に曰く一(いつ)なり。三に曰く久(きゅう)なり――。
 (「誠」を実現するためには、実(実行)、一(専一=一つのことに没頭する)、久(継続)の三つが大切である)
〇あるいは、17歳の時、学友が九州に医学修業に旅立つ時に贈った(一部省略)、
 ――業の成ると成らざるは、志の立つと立たざるとに在るのみ。故に士たる者はその志を立てざるべからず――。
 (学業・仕事が成し遂げられるかられないかは、志を立てるか立てないかだ。故に志を必ず立てよ)
〇獄舎の中で友人に出した手紙である(一部現代語に)。
 ――たとえ獄中にありとも敵愾(てきがい=外敵を成敗する)の心一日として忘るべからず。もし敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋(せっさ)怠るべきに非ず――。

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